帰り道の随想(自宅界隈編)
小岩駅に降り立つ。
そう言えば読む本が切れていたのを思い出す。
帰りに古書店に寄ろうと考えた。
「住み良いまち7位」
と、垂れ幕が下がっていた。
「住めば都」ではないが、住みよさは「時間帯」ではないか?と最近そう思うようになった。
朝夕の通勤時間の殺気立った時間は、どこか心身によくない気がする。
思えば、アレを四半世紀以上・・・あたかも、文化のようにやらされているのが凄い。
午前の駅はご老人が多い。
ゆっくりな時間が街に漂う。この緩慢な時こそ永遠に続くんじゃないか?と思うくらいだ。
都内外れと言えど人が多い。
町こそ隠者が住むと誰か書いていた。
別に隠者は何処にいてもいいと思うが、生きた人間こそ情報源だとしたら、町の微かな変化を観察することで、人間・・・これからの文化の流れが分かるのかもしれない。
無事、古書を買った。
中国関係の話だけど、前に買ったかどうか分からず自信が無い。
昔話や奇譚はどこか安心するところがある。
悪趣味なのかもしれないが、逆に昔の人や生活も今に通じるものがあるとしたら、基盤・・・文化の基礎が続いていることへの安心感かもしれない。
ただし、特定の集団ではなく根源的な人間を感じられる点として。
瑞江駅に行くバス。
バスもAT車が大部分だ。
MTは軽トラくらいだろう。
大型バスもAT車が入っている。
シフトショックの軽減の改善だそうだが、中井久夫などは原理を学ぶ上でのMTはありじゃないか?など言っていた。
便利なものがベースとなれば、基礎的な生活は一体なんだろうか?と思う。
いまや、富裕層向けやプレミアム会員などのリッチな階級が当たり前になりつつある(※)。
私などはとても追いつけないが、ルンバや掃除代行サービスなんかも出回っているゆえ「便利」の格差もこの点で実感できる。
あるものにはあるし、ないものにはない。
分かるものには分かるし、分からないものは分からない。
(※)これは流行りというが分からない。考えてみれば青山や世田谷などは街全体がそうだったではないか。
夜の気配を感じに江戸川へ向かう。
いまは、グランドだの公園、芝生に実用されているけど、違法耕作をしていた頃の方が味があった。
まだ「間」というか、余裕があった。
もちろん、薮は手入れしないと虫が湧く。
しかし、海もそうだが、川や山野は人の目が完全にいかない。
人の手入れが入り過ぎると、どうも鬱陶しさを感じる。
適当でいいじゃないか?と思うけどそうはいかないのだろう。
近所の公園なども、危険だから球技禁止とか、危ない行為禁止の公園などある。
私はそれを「観賞用公園」と揶揄している。
汚しもできないし、ベンチも仕切りがある。
砂場も時間外はネットをかけられるし自由がない。
これを、面倒見がいいというのか?お節介なのか?余計な仕事を増やしているのか?
市川橋。
原則というのは小さく持ち、あとは個人の裁量に任せていくという記事を見た。
いまは、ルールが多すぎる。
ルールに立とうとする者が多すぎる。攻撃されないようにするために。
成田に向かう特記列車。
タワマンが見える。展望は市の名物になっている。
各フロアはもちろんリッチな方々が。
いまの川原は野草が生えだしている。
カラスノエンドウ、クローバー、ギシギシ、カラシナ、ヨモギ、いたどり、ツクシ…
どれも、苦味があり気を巡らす効果があると言われる。
カラスノエンドウなどは、かき揚げやお浸しなど豆苗の代用になる。
ヨモギは有名で言うまでもないが、春菊の代わりになる。
カラシナは菜花であり、柔い部分をお浸しや酢味噌で良い。
時間があれば調理したいが今日は疲れてダメ(⊃ωー`)zz