(危ない人が)宗教性を語る
坂口某などは、自分がホントのことを言うから政治にいけない(あるいはいけない)という。
正直は殺されると、ホントか嘘か分からないことをいいます。
しかし、ホントのところがあるのでしょう。
分かっているけどできないというのがこの世にはあります。
できないからある部分で狡くなる。
できない、狡い、だから「まぁ、まぁ」となる。
物事には、間をおかなくてはならないことはありますが、それで通し過ぎれば惰性になり物事は劣化していくことだってあります。
ならば、時に外科手術のようにバッサリやってしまうというのが必要になる。
残念ながら、能力のあるないは、この世にはちゃんとあるのです。
もちろん、歳を取れば体力も無くなりますし、ムリはできなくなります。
だから、若手に任せるのが必要になるのですが、問題は賢さや頭の良さになるのです。
誰がやっても同じというのは発展性に欠けます。面白さもそうでしょうし、新奇性、特異性もなくダラダラと時間だけが過ぎ、同じ風景が目の前に続きます。
私は時々、宗教の本を読みます。
どこにも属していませんが、今日はお坊さんの本でした。
なぜ、宗教なのか?
生活や仕事などはルーチンでありますし、時々、出来心で、如何に速くできるか?など思います。ゆえに、無機質で灰色な世界が広がることがあります。
五木さんは経済をアクセル、宗教をブレーキに例えました。
まぁ、考え方としては近いでしょう。
むしろ、広がりを作るのが宗教と言ってもいいかもしれません。
意味合いを広げたり、物語りを作っていくような。
ここでいう宗教は宗教性でして、拝めば救われるとかいうのではありません。
お坊さんの内容を読むことで功徳があるかもしれませんが、知らないより知ることで、現生活に何らかの効果をもたらすなら、知っていた方がいいでしょう。
ポジティブな意味で。
もし、そのお坊さんの話というのが本質だとしても、並行して現生活も並行しているのです。
七五三や初詣もそうですが、一時のイベントと化しているなら、それは宗教なのでしょうか?
たぶん、あったとしても並行はしていないでしょう。
もっといえば、地下に潜らせておき、使いたい時に使うご都合主義、現世利益が強いともいえます。
良い悪いは別にして。
坂口某の話はもっと本質を話されますから、現生活にとって煙たがられるのは分からなくないです。
不都合や不条理を込みに現生活はできているのですから。
言ったところでどうするの?な話になるでしょう。
そこは、自分のできる範囲でやっていくしかありません。どこまで付き合えるか?です。
能力、体力、体調などを鑑みるのです。
ということは、本質というのは恐ろしいものでしょう。
だって、TPOはもとより、自他共に…特に自分のできなさ加減を露呈させるのですから危険極まりない。
オウムがあちこちの宗教教義を集めて立ち上がったといいますが、あれもどうなんでしょう。
私などはありだと思います。
仏教に従わないものは錫杖(武器)で殺してしまえという言葉があるようですがらそれはダメです。ここは娑婆なんですから。
今考えると、エリート信者などは研究者に見えなく無いです。
宗教家ですら、色んな宗教を集めて比べたりするのですから、ああいう生き方しかエリート信者には出来なかったのだろうな、とも思えます。
娑婆に受け入れ先があればの話ですが、学校自体が職業戦士を作り出しているのでしょうからどだい無理な話でしょう。
ふむ、宗教はブレーキだの武器だのいいますが、現実と並行する世界な気がします。
イエズスは30過ぎで磔(はりつけ)にされました。
真を突くというのは、現生活での人にも痛い意見がなのでしょう。
慈しみなさいといいますが「急にソレできますか?」な話になって当然です。
現生活の正しさというのも行き過ぎれば、息苦しくなります。
宗教の正しさを出せば煙たがられたり、殺されたりするのですから、難しいところです。