Nightapollon’s diary

元のブログが行方不明になり作り直します。時にディープな事を言いますがスルー(見逃)してください。

機能主義的見方(あるいは能力?)

スペクトラムでも、運や隠れた才覚が活かされないと話にならない・・・という話題を見ました。

 

改めてフツーとは何なんでしょう?

サラリーマンのことでしょうか?

家や家族を持てて、並な生活ができることでしょうか?

 

しかし、私の見た話題というのは的を得ています。

「機能主義」と「能力主義」というのは親和性が強いと思います。

その道で生き、かつ有能で、その場の雰囲気にも馴染めるという、何も今言われだした事ではないと思います。

ヌポンは機能主義だと言われます。機能する前提があり人間があるというのです。

これを、イコール全体主義といっても言い過ぎではないでしょう。

機能主義は実は身の回りに当たり前のように…それこそ、水や空気のように存在しているのです。

 

村上春樹と河合氏の対談で興味深い内容がありました。

・サラリーマンは才能である。

・もし、この世において(個人の隠れた)才能が活かされないというのは気の毒である。

・それでも隠れた才能もなく、この世に適合できない場合もある(※)。

 

(※)その場合は、生保でやっていくしかない、と。

 

3番目の過酷な条件はありだと思います。

それでも、認めたがらないのは、そういうのを養っていかないといけない≒損である、という感情が働くのでしょう。

 

また、(確か)養老先生なども、とある技術高校に入るのはタテマエであり、将来の専業者への泊付けに過ぎないという話しがありました。

中卒ではどうか?ということで高卒にしておく、あくまでも措置だそうです。

 

将来、その道に行かない者にとってもまた、高卒というだけで、技術など身につけてもそれを行かせる場所などない、というのです。

要はお情けでしょう。

 

「原因は発達障害」というのは、どうも上手くいかなかった時の慰めの言葉や落とし所な言葉に感じます。

物事というのは仕方ないことはあります。

しかし、仕方ないでは治まりがつかないことがある。

だから、何か納得できることや原因を探りたくなる。

まぁ、早い話、上手くいくことが当たり前≒機能主義が良く働いていると言うことになります。

 

森川さんなどは「上手くいかないのが当たり前」とした方が新しい流れや物事が生まれると言いますが、工夫より維持の方に力点がヌポンにはありますから、変化を嫌うところがあるかもしれない。

 

逆に言うと上手くいくのが当たり前というのは、かなりハードルの高いことをしています。

さきに、ナチュラルローソンを挙げましたが、ハイレベルなものしか置かない、提供しないというのは来るものにもそれを望んでいますし、そのレベルに達しないと入ってはならないという(野暮な)暗喩を含んでいます。

 

凸凹があって包括されている方がまだ可愛い。

「その程度でいい」というのがありますし、それを選べるんですから・・・むかしの国立病院のように煤けた売店や余り美味くもない食堂というのは、個人のその日の懐具合に合うものかもしれない。

 

発達障害やアスペは時に小馬鹿にされる危険はありますが、免罪符として働いていることもあります。

いや、発達障害ゆえに鍛えなければならないというのがありますが・・・そういえば、ハンディのある子が生まれない場合、中絶手術が盛んな頃だというデータもあるようです。

 

まぁ、いまはハンディのある人も身なりが綺麗に歩いていますし、それを並に合わせる、合わせられたともいいますし、どうも「欠点」は隠す、無いものにするという力点が働いているようです。