意地でも開催不明な五輪
「仕事とは嫌なことをしてカネを貰うんだから仕方ない」とは言いますが、分かっちゃいるけど辛いものです。
帰りの某巨大古書店にて、バイトが仕事として本を扱う姿は生活のためにやっているんだな、と感じさせる言動がありました。
誰かのためになるのは間違いないことですが、その効果と目的が一致しないことに、生きていることの最大の矛盾を感じてしまいます。
古い人などは才能など限られた人だけのものだ、といいますが、果たしてどれだけの人が腑に落ちて生活しているでしょう?
残念ながら、生活…仕事などを四六時中していれば、自分の好きなことや得意だったことが忘れ去られ、生活しなければ!という薄い強迫観念のようなものに取り憑かれます。
上の学校に行った知人などは、堅実な選択をしたが果たして面白い選択だっただろうか?とたまに語ります…いや、愚痴かもしれない。
理科がやりたいというのは分かりますが、電気や工学なら、生活に必要ですから、食いっぱぐれがない。
ましてや、(純粋)数学や、天文学、地学などで喰っていけるのか?といえば、喰ってやって行ける人のほうが少ないかもしれない。
北大のクラーク博士などは「大志を抱け!」と豪語しましたが、それに続く言葉が載っていました。
「紳士(淑女)たれ!」と。
まぁ、これは紳士のスポーツと言われる競技から来ているのかもしれません。
モラルを外在化させるのではなく、モラルを内在化させるというか。
S医師のいう倫理とはなんぞや?という考えさせる授業が好ましい、と言うのに通じるのやもしれません。
さて、五輪をやるのかやらないのか。
竹橋の五輪筒(1週間前)。
未だに2020というのが見ていて切なくなる。
あるいは、幻だったと言って希少性を持たせる寸法のかもしれません。
使えるものは善悪なしで何でも使うのが企業家であり経営者であります。一見よさそうに見えても、内実にとんでもない事情が隠されていなくはない。
数字などは如何様にでもなりますし、暗数・端数の部分では測れない、測定不能な状況はいくらでも、とりあえずは無視できるなどはあるのです。
森川さんの本によりますと、北欧などは工夫をする文化だと言います。
それがダメなら次の手を!なのでしょう。
ヌポンのように、これができないのは何故?と問い詰め、精神論や根性論、玉砕覚悟で心身を損なってまで遂行する態度は誰のためでしょうか?
人のため?いや、本人を殺してまで遂行するのは無駄死にと言うのです。
次がない。
もう一度、見てみましょう。
何とも意地やヤケクソを暗に感じさせるのは、私の皮膚感覚がイカれているからでしょうか?
手前は皇居ですが、坂口さんでさえ無菌でガラス箱に大事にされる方々と言います。
まぁ、考えの延長に王朝復興な匂いもしないでもないですが、よく言えば直接的に人助けなどが出来るが、反面やることが直接的なので、刑罰が出た場合は間のクッションがなくなる。
大王の前で首切り刑などが発生する可能性がある。
銀行やお菓子会社、工場などが未だに五輪のポスターをするのは、たぶん隣を見てしたのでしょう。
隣というのがまた、巨大な権力装置ですから、1目置かないわけにはいかない。
装置の意見や言動にコロコロ態度を変えて合わせていたら間違いはない。
茨城で五輪看護士が辞退したケースがありましたが、立場画悪くならない覚悟で望んだのでしょう。