機能主義的見方②
さて「能力」についてですが、ないよりあった方が良いというのは、人間ゆえ、現世利益ゆえでしょうか。
どこか秀でたところがないといけない、というのを子供が口酸っぱく言われるのは、その後に良くない未来を暗示しているかのように思われます。
何か殊勝なことが出来て、欠けが無いようにしないとならない。
考えてみれば、かなり脅迫的(強迫的)な感じがしなくない。
そういえば、親が子に自分の惨めな生き方を真似させたくないと言う理由から折檻しながら躾ようとして、間違えて殺してしまった話がありました。
惨めなのはアナタですから子供ではないのですが、世に出た時の厳しさは誰も彼も避けられないことは暗示しています。
機能主義というか全体主義というか、歯車としていないと叩かれたりするのですから、個人として・・・あるいは、集団として包括された場合に凹凸を 無くす傾向が働き、誰もが一定の○○はできないとおかしい、となります。
これでは、個人は生きられない。
しかし、幸いにもアスペや発達障害で本まで出した人が居るのは事実です。
あれはたまたまでしょうか?
あるいは、隠れた才能か?
いや、上手くいって見える時は人間まともに見えるのかもしれない。
物事に上手く乗れるといいますか、そうすることで個人が活き活きしだした時、ようやくまともになったという「お認め」が下さるのでしょう。
学校の悪い先生などは、個人差を認めていますし、ならばそれに相応しい生き方をしていけ!などと生徒に言います。
学年担当なども、小管理職のようなものですから、一人一人に目がいくかどうかは疑問です。
このご時世ですし、自分のことで手一杯ではないか?才能か云々言わずに、自分らで勝手に見つけて、身の程を知れ!と放言するのも分からなくない。
穿った言い方をすれば、自分の能力の有無や程度など、分かっておけ!という逆忖度が働いているようです。
これをするしないで、だいぶ違ってきます。
自分の程度が分かっていれば、これはどれくらいは行けるかな?という目安は付いてきます。
これをしないで世の中に放り込まれたら、ちょっとキツイ。
即、現場な世の中ですから、基本、向こうは出来るものとして受け入れ、それを互いに裏切られた時の衝撃は大きい。
ニーズというのが仕事!というのが相場ですし、国立病院の煤けた食堂レベルなのか?私学の美しいコンビニなのか?というのは・・・程度によりますが、自分を知っていないとならない。