Nightapollon’s diary

元のブログが行方不明になり作り直します。時にディープな事を言いますがスルー(見逃)してください。

結論ありきな話(野暮話)

まぁ、それは道理でしょ?みたいな話についていけない私が居ます。

世の中には「陽キャ」と「陰キャ」というのがいるらしいですが、バロメータからしたら、私などは陰キャの果の果て・・・僻地に居るようなものです。

 

陽キャ→旧ネアカ

陰キャ→旧ネクラ

 

いつの時代も、人間の分け方には過敏なようです。

隠れ・・・自分を多少悪く見積もって陰キャ(旧ネクラ)に分けているのも居るようですが、実力からしたら…いや、本性は陽キャだったりしますから、要注意です。

 

~以下、抽象的な話が続きます~

あえて、私などはどん臭く話しますから、結論までたどり着くのがかなり遅れます。

いや、カフカの城のように、遂に目的地にさえつけないのかもしれません。

目的地さえ分かっていない。いや、目的地とは何か?大事な事はなんぞや?

分かるねは分かるし、分からないのは分からない。

ある意味、センスかもしれませんが、生きているうちに辿り着けないことがある。

 

カオス(混沌)とは、世界の果ての何処かにあると言いますが、実は現実のあらゆるところに散在しています。

それに意味づけしたり、チョイスすることで明確化するのですが、目的によって選ぶ、選ばれるというのは、どこか才能の有無がありそうです。

 

無意識すら、現実・・・目の前の世界だ!という意見があるようですが、実際意識化していない…視野に入らない現実は無意識・・・二アリーイコール(≒)と言っていいでしょう。

無意識を意識化する…無いものをあるようにする、というのはどうも創造力に繋がりそうですが、手っ取り早いのは、やはり既存のあるものを手に入れたり、習うのが近道な気がします。

 

恐らく、そこに器用さ・・・生きやすさや適応力・・・生命力みたいなものがあるのでしょうが、それらが相まって生きる力や生きる創造性が生まれるような感じがあります。

 

もちろん、そこにはどれくらいメジャーか?あるいはマイノリティか?などの付加価値は付くのでしょうが、たまたま目立った!目立たなかった!なども含めれば、たとえば…何かの賞を得ようが得まいがいい!みたいな考えに繋がると思います。

 

ツイッタもそうですが、SNS人口が増えました。

現実の人口(≒脳や考え、ホンネ)などが、現実ではなく、ネットセカイに移住したため、ある種の混乱があるように見えます。

人口が増えれば、もちろん新たなルールや価値観、倫理(メディアリテラシー)などが必要になるようですが、そこは現実のカオスと地続きですから、何が起きてもおかしくない世界と見た方が得策です。

 

傾向としては、利害関係や強弱関係が出る。

現実をネットに移したのですから、ネットがオアシスだったなんてのは、過去の話になります。

ゆえに、ネット界の僻地、極北に向かうのも生存を高めるのも手です。

現実より精神的なものが直に出ますから、精神難易度は高いと見た方がよいでしょう。

 

影響力のある存在のフォロワーが多いのは当たり前になりますし、元から存在感の薄い場合は、次第に相手にされなくなるのも成り行きかもしれません・・・いや、それこそ道理でしょう。

 

しかし現実を制し、ネットも制するというのは、ある意味最強なところがあります。

むかしは、何かに秀でていればよし!とされていましたが、運動できるのは勉学も仕事もできて人生がよく回るなんて、いまはいうのですから、現代人の・・・進行形としての次世代は昔より器用だと言えましょう。

 

(´・ω・`)「私には出来ること少ない」

いや、これこそホントのところで、1つか2つできればいいとしていた時代があったのですから、それが出来ないと、ちょっと・・・いや、だいぶ足りないヤツと見られてもおかしくない。

見られるならまだいい、レッテルを貼られれれば、そこから抜けるのは容易ではない、この点は昔から変わらないです。

 

流行りの言い方をしないと、目も当てられないとあたうのは、カオスの変化が早いということでしょう。

逆に言えば、カオスに対しての親和性が高い。

陰キャ・・・真性の陰キャやネクラが変化に弱いのが時に、自閉症だの発達障害だの言われるのは、時代背景が影響していなくはない、と思います。

 

発達障害ブームと言われます。誰も彼も発達に偏りがある、なんて意見があるようですが、妙なことをいう、変わったことを言うなんてのが許されたい素地というのは、元から正解のある言葉が望まれているからでしょう。

正解を導くために人間はある、なんてのはその目的さえ不明ですが、正解を目指すのがメインだと強く思う心性自体に強迫性を感じます。

 

「仕事が生活な文化」と誰か言っていました。

仕事のために生きる・・・いや、ある人にとっては病院に通うため仕事をするなんてのは、これこそ訳が分からない。

一時期、「企業戦士」や仕事という戦場に向かうという歌詞さえありましたが・・・もっと言えば、生きること自体戦うことだ!と言い切る意見もあります。

 

ところで、分解系のスピードに加担すれば物事の加速は進むと物理の方で言われます。

これまた、抽象的ですが事柄に対しての速さや理解というのが速ければ速いほど分解は進むというらしい。

分かるというのが、分けるというのから来ているとすれば納得でしょう。

生まれるというのが複雑になるとすれば、劣化や老化は複雑から解放されて行くのですから、単純な事柄へ向かうわけです。

 

複雑さを複雑なまま持ち堪えるというのが成熟だという意見が少し前に流行りましたが、一方ではどうも単調さや分かりやすさが好まれるというのは、無意識的に分解への方向へ加担しているのではないか?

 

また、一方では複雑さを持ち堪えられないのを未熟と揶揄されますが、どうなんでしょう?

文化のフォームとして未熟というのが選ばれることもありますし、生存に適するゆえに未熟を選ぶことがありますから、一概に言えませんが、分かりやすさ、明確さ、分解されやすさというのは、あたかも植物の成長点がいつまでも温存されているような状態に似ています。