処世術は使い方
謝る、謝らないという話が流れて来ました。
悪いことをしたら謝るのが基本ですが、中にはそれで上手くいかない事があるようです。
古代中国の宮勤め(宮廷官吏など)などを見ても分かりますが、仕事での失敗は進退に影響することがあります。
ひとつの「行い」すら利害関係に絡め取られる、見方によれば恐ろしい世界です。
古代のことを出さなくても村上さんがアンダーグラウンドを発表したように、サラリーマンなどをしていれば、サリンの被害を過小評価して、また会社(=宮勤め)に行くケースが多かったそうな。
サリンについては、もっとドス黒い話はあるでしょう。
サリン吸っても這って会社に行ったとか、視覚が障害され白黒世界で仕事を続けたとか。
駅で倒れた人間を舌打ちしながら跨いで行く人間が多かったとか。
さて、謝る、謝らないについてですが、社交上それでスムーズならするに越したことはないでしょう。
問題は、人や物事が拗れたり拗れる場合がある時です。
その場合、問題と折り合いを付けたり、解決していきながら「謝罪」という人間感情に付き合っていけばいいでしょう。
最悪、ケンカになりそうとか、襲われそう、雰囲気が険悪続きなら、その場を離れるしかありません。
ここは極楽浄土ではありません。何が起きるか分からない娑婆ですから、安楽な期待は持たない方がよろしいです。
また、その人とやり直したいなら謝るのもありかもしれません。
しかし、謝るというのは「薬」に似た所があります。
病人に使えば有用ですが、健常者に使えば無害どころか、毒に麻薬になり得ます。
DVなどが「やめられない止まらない」になるのは、このパターンが生活習慣病みたいになっているからでしょう。
病は生活習慣どころか人間関係が作り出します。
DVは2人で作り出すようなものかもしれません。
宗教や論語を持ち出す人もいます。
それで、上手くいくのならいいでしょう。
しかし、ここは娑婆ですから物事が通じないケースが多々あります。
礼節や汝殺すなかれで済むなら、結構。
親鸞は仏教にトドメを刺したとか、サリン事件で宗教は危ないと分かったとか、ものごとは微細に研究されることなく今に至ります。
ただ、あれ(宗教)は良くないと理由だけで。
感覚的に「この人はわかる人」なら謝るのはありです。だけど、一癖ありそうな場合や物事が捩れて行く予感があれば、問題に取り組みつつ(その場の)感情処理をした方が無難です。
要は状況次第になりますが。