選択はニュートラルに(生命倫理編)
科学哲学の本を読みました。
何を言っているのか正直分かりませんでした。
科学技術については、いま進みすぎて一般凡人にはついていけそうにないとこに行ってしまって・・・いや、ついていけないのは私だけです。
教育は基礎に当たりますが、世の中に出れば各々、特化した知識で仕事してますから、果たしてついていけるものなのか?
その前に、採用されないと話にならないし、カネ目当てなら興味などあまり関係ないでしょうし、技能というか、知性に磨きをかけるというのが疎かになります。
カネの国。
知能や運動能力は個人差はあります。
残念ながら選んだり、取り外したりできるものではありません。
だから、試験管ベビーになるのです。
格差がここまで広がれば自然にそうなるのがおかしくない。
あそこは、出自が良くないから良しておこう、となる。
女性などはおかしい、おかしくないという嗅覚に優れていますから、必要ないと思うのですが、まぁ…念には念を込めてでしょう。
私ごときが久しぶりに真っ当な考えを述べるとしたら「状況により生命の選択は出てくる」というものです。
しかし、これも操作的に外部からやられているなら、話になりませんがとりあえずです。
状況が悪いのに余計な面倒を起こさない、というのは護衛であり、将来への予防です。
その状況から何が言えるのか?
予想できることは?
将来、そのリスクとムリしながら付き合わねばならないか?
なら、やらない方がよろしい、という選択はあっていいと思います。
本来なら「できない」状況にカネを渡せばいいのですが、楽しみ・・・それも無限に湧く欲望にカネの木に水をやっているから、話はややこしくなるのです。
本当は、物事は単純な方が好ましいのです。
さて、遺伝子選択などはネットを探せば、暗に出てくるはずです。
今いる人にとっての選択主体ですから、将来に出てくる人へは選択権はありません。
変な言い方をすれば、擦れた賢さがある・・・いや、賢さの精度が高いといいますか、当たり前ですが時代によっても状況は選べませんから、最良の選択をした!となるのです。
ゆえに、試験管ベビー賛成!となる。
今後のリスクは選ばない、というのはマーケット的ですが、逆にいえば最良・・・良好にしていくには、どこか将来に対して埃を払わないとならない部分もある。
たとえば、カネも知能もない私が急に明日から会社を立ち上げよう!医者を目指そう!などというのに似ています。
これは、夢がないというのと同じですが、同時に現実的でもあります。
慎重に生き物が荒野を渡るようなものです。
「いま活かせる部分を使っていこう!」という健全でもあり、セコい考え方でしょう。
なぜ、セコいか?
余裕があれば広がりがある事はできますが、そうでなければ、必然、むかし出来たことも控えよう!怒鳴らない方がおかしい。
いきなり、舵を切るというのは、そのシステムがデカければデカいほど、危なくなる。
現状維持というのがときに「中くらいの医者」といわれるのは、誰しもが時の名医・・・革命家になれる訳では無いというのを物語っています。
あるいは、良かれと思っても全体的にはよろしくない、何てのが出てきてしまいます。