Nightapollon’s diary

元のブログが行方不明になり作り直します。時にディープな事を言いますがスルー(見逃)してください。

ホントは必要としている必要悪

以前、河合何某が「自殺して、実は喜んでいるのがたくさんいる」と言っていました。

自殺対策に充てる労力はいまも変わらず2万人をまだ救えていません。

 

たとえば、心理士などが好んで使う「虐待者は被虐待の過去を持つ」という説があります。

コレ、ホントでしょうか?

 

歳をとれば(年数が経てば)分かりますが、生きていれば人間はどこかでスティグマを抱えるものです。

親から子への虐待の連鎖といいますが、壮大に観て人から人・・・大人から大人への虐待があるように思えてなりません。

 

悪い言葉に「仕事は嫌なことであり、嫌なことをするからおカネが貰える」というのがあります。

これは、やった分だけ(結果が)返ってくるという60年くらい前の思潮ですが、果たして今も通じるでしょうか?

 

逆手に取るではありませんが、謙遜や敬うというのもひとつ間違えれば、相手を付け上がらせるだけの態度になりかねません。

そこは、篠原さんの後宮シリーズによく描かれています。また、古代中国の宮勤めでも、言動には良く注意することが宮廷で生き延びる術(すべ)だ、と多くの古文書に載っています。

 

さて、自殺者が居ると安定するというのは不気味なものです。

河合何某は続けて「あの、弱いやつが死んだと思うやつもたくさんいる」と推測しています。

弱いやつを支えるのが福祉の仕事だと言うのに頭が下がります。そのまま手を出さなければ、彼らは持ちこたえないでしょう。

 

仕事にしても、面倒を見るというのが松下さんの頃にはあったようですが、いまはどれだけ仕事ができるか?ですし、できないことを叩かれるというのが、さほど悪い事だと思われなくなったきらいがあります。

遅い→悪い…という単純な判断のように。

 

坂口さんなども電話相談をされているそうですが、身体がよく持つと思います。

悪い環境のなかでは「生きるのはなにか?」に考えがなってしまうのは有り得ますし、そんな時こそ自身の環境を積極的に調整する状況ではないでしょうか?

生きるのはなにか?と思わないで済む、活きた生活に向うのがベストでしょうが、動けなくなるから考え出すというのもあります。

 

しかし、先の心理士の妙な説ですが、アレ、私は疑問いっぱいに感じてしまうのです。

人間も動物の仲間でしょうが、動物のの名残りといいますか、残酷な面も受け継いでいるとしたら、名残りを克服せずにどこかで、酷いことをしているのではあるまいか?

 

要は疑虐待したいからする。

虐待するのを許されるからする。

やってもいいならいくらでもやる。

 

などの、理知やモラルを飛び越えたことをやらかすのではあるまいか?

老若男女、どこかで酷い面があるのなら対人恐怖症など無くなるはずがありません。

だって、相手がいつ変貌して何をしてくるか分からないですから。

 

いわゆる、好ましくない病いなどはなって仕方が無い部分もあるように思います。環境と生体が相互関係ですから、どこかで狂いが出るというのは生体が勝手におかしくなったとは言えません。

大人は問題解決を一人でやるもんだ!という説も、どこか欺瞞に満ちていますし、放任な感じがあります。