生きることは戦いである(現代戦術論)
敬愛するアーティストもまた、生きることは敗者復活戦と豪語した。
底に行き、底に落ちて、再び這い上がる。
(…才能は?知力は?体力は?)
いろんな疑問が浮かび上がるけど、極楽ではない娑婆にて、今まで生きてきた経験値・・・無意識に溜め込まれたものが活性化して、再びこの世に生きる。
なだいなだは「自分が分かったものはこのくらいだ。次の世代にはどの程度(文化)というのが分かるだろう」
彼らの生きてきた経験値は無駄ではない。むしろ、古くなったり、時代にそぐわなくなることも無くはない気もする。
河合隼雄ですら、心理士資格の問題で揉めたとき「イメージを語る心理療法から実用的な療法になるのか…」と、半分以上落胆していた(感じがある)。
今を生きる。
この時代には何が見えるのか?
何が前世紀のマニュアルや教義、テーゼ、常識が使えないのか?または足を引っ張るのか?
謙遜の美徳なども、時に足を引っ張ることも分かってきた。
ふんぞり返る成金やカースト上位の前に、コチラの情緒や節操を言っても、向こうの機嫌や感情1つで何もかも吹っ飛ぶ。
教育なども、ツールに過ぎないのが地金として見えている。
地金の部分は世間であり、その時の常識や巷からのニーズである。
理想を教育に求めていては水谷さんになる。
ドラッグ問題などを木切れ板1枚で抑えていたのも分かった。
暗部に蔓延している方が物語としては、ありうると同時にそれは現実の象徴でもある。
イネブラーあるいは、スケープゴートなどは、自分にも飼っているし、相手にも飼わせている。
生活習慣病などは一種の人質である。
弱みと同時に強みにもひっくり返る・・・返せる知能があれば。
S医師が相手も自分も弱くさせておく、というのは今言ったことに似ている。
肥溜めの住人だ。
腐った中に救いようがないのを前提に相手も引きずり込み悪くする。
教育などタテマエである。
地金は世間だと先に言った。教育など数十年でも世の中で生きる方が遥かに長い。
いまは大人のハラスメント(イジメや虐待)は小さな子供でも知っている。
生活習慣病を抱えながら生きるのは病的だが、身体は人質であり、世の中のものでもあり本人のものでもある。
人権と言うのが根付かないのはそこにある。
ある意味、生活習慣病(≒心身症)というのはどちらにも転べるし、転ばされる代物でもある。
どちらにも問題があると言えば角が立たないからであろう。
この点、アルコール症などに非常に似ている。
共依存やイネブラーな関係として。
娑婆にて数十年来、具合が悪くなるというのは、問題を抱えながら解決を目指さないところにある。
どちらも共犯関係としてだからだ。
U師匠などは、心身へのアラームを切ると身体に悪いというが、切らないで居られない世の中か?
切れば問題が露呈するから切らないのであって、切って騒いだり問題にしているのが、社会問題だったり、子供や女性の自殺や非行である。
この点、犠牲の上に世の中は成り立っていると、綺麗事ではいくらでも言える。
学校なども昔から世の中の縮図というが、世の中の方がやはり前提な気がする。
「科挙」の延長が現代も続き、能力を上手くみつけられたものや器用にこなせる練習を達したものが、世の中を渡っていける。
「世の中はこういうものなのだ」と分かった方が生きやすいといえば、生きやすい。
組織などが問題になるのは「蠱毒」に似ている。
名越氏は権力やカーストを肯定するが倫理はない。そこに、あるはずがない。
全てを制して強い毒虫ですら、(俯瞰的に見たら)外部から使われる存在に過ぎないののだから、救いようがない。
権力があった方が組織は安定するが、手網を間違えれば問題になるのは言うまでもない。
教育とは別に学校などは、組織のお手本にも見える。
また、U師匠などは学校などには生きる術を身につけた方が良いという。将来組織で生きるにせよ間違いではない。
ただ、その言葉や案ですら、次の世代には邪魔になったり強くならねばならないとかいう、流行りになったりするから先は読めない。
もちろん、弱くても生きられるという手段はいくつあってもいい。
これほどまでに、子供の前で世の中とはこんなものだとか自殺の背景や、その周囲の反応が分かってしまうのだから。