選択はニュートラルに(現在は自然発生である)
若い子は探せば悪いことはしているかもしれない。
いまは暴走なんてのはなくなりましたが、形を変えた暴力性なんてのは、ところどころあるものです。
それが、巧妙かつ見えなく、賢くなってきているというか。
その暴力性というのは、前世代が手本や前駆体と言うのは分からなくあらりません。
鳥が親を見るように羽ばたけるように、良いものを習えば悪いものも習います。
1番、影響力のある状況で感化されるとしたら、親でなくてもよろしい。
コイツが一体何に染まったか?と芋づるを引いて探っていけば、何か出てきます。
まぁ、10歳前後で倫理(≒加減)は出来上がるといいますから、昔から躾はそれくらいにやっておけ!はあながし嘘ではないでしょう。
いまは、超個人主義(プレ個人主義)と新自由主義がありますし、それもあって子も大人と対等な扱いがされますから、いまの子が新人類・・・世代間の考え方が違ってくるというのは当たり前です。
むしろ、生存適応ゆえ、そうならなければどこかおかしい。
ご老人も分かってますから、時間差で電車などに乗っている。
なにが分かっているか?
座れない、弱ければグダグダいわれる、足引くやつは乗るな!の目線が刺さるなど、ある意味、更新国並の、サバイバル感覚・・・強さが求められているのです。
これが、昔なら「とりあえず」の名目で老人には優しくしなさいと言われてましたが、考えてみれば「こぶとりじいさん」にだって、悪い年寄りが出てくるんですから、年寄り全体が人間性ができてるとは限らない。
しかも、個別的に見るのはやはり神経を使うから疲れます。
ゆえに、スマホなどに熱中して現実逃避して過労を避けるのが賢い。
養老さんなどは「これができない」のだから、それを周りがその分やるのだから、それが仕事なのだ、といいますが、余計な仕事を作っているのが現代なとこがあります。
早い話、電車などに老人車など付けたらよろしい。
賢い人はサバ読んで乗るでしょうが。
こんなんですから、倫理も程度もヘチマもないのです。
カネ(=自由の換金券)が大事なんてのは若い子も直感的に分かってますから、賢く振る舞い、しこたまもうけたら株でもAIに任せて楽しようとなるのが当たり前です。
ついていけない先行世代などはアホになるわけです。
就職氷河期などやった人間は前例を作っていると同時に、後世代から見たら御時世から失敗例を見て学んでいるところがある。だから…
(´・ω・`)「あんたら一体何やってたんだ?」
と、軽く言えるのです。
さて、生命倫理から話がだいぶズレました。
科学にせよ、分からんものはカネが出ないというのは、斜陽なヌポンではなって当たり前なとこがあります。
五輪ピックどころではないはずですが、海外からのカネをアテにしたり、過酷ボランティア・バイトで中抜きを目当てに「いま」を何とかしようとしてますから、科学の基礎や自然観察眼など、モノを観る余裕は生まれやしないでしょう。
やるなら、自ら少ない人生の時間を削ってこの世の真理を見つけるしかありません。
科学には「法則性」を見つけたりするのも基礎ですが、大学広告がうるさく「効果性」を、謳い文句にしてますから、科学のではなく、単なる生産技術みたいなものでしょう。