対話というのは・・・
オープンダイアローグについて私見を述べました。
北欧より数が少ないと言いますが、語る場という風土が無いからではなかろうか?
いや、宴のような無礼講みたいなのがあるかもしれませんが、あれは理性が薄くなって品性が低くなっています。
カタルシスを求める行為に近いかもしれません。
しかも、集団・・・多数でカタルシスを迎える点では、かなり効率的な方法かもしれません。
言い方がアレですが、カウンセリングですらバーの聞き手と例える人が居ます。
占いにしても、聞く態度が上等だからやっていけるんだ!という意見もあります。
ある種の才能でしょう。
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私自身は対話の必要ない現場の仕事ですが、上からの指示をただするだけ…というのはアレですけど、モノを扱う仕事ゆえ仕方ないのかもしれません。
以前、福祉の関係をしていた時にガテンからやって来たオッサンが居ましたが、その情熱の重さはオープンダイアローグには不向きと言えるでしょう。
なぜなら、もう結論ありきな会話で通そうとするのですから、他人が入るとスペースなどありません。
私も人のこと言えませんが。
たぶん、耐えることが必要なのでしょう。
「なに?これも分からないのか?」というのは野暮なことを言うな!の代表的な言葉です。
ある意味、常識やルール、暗黙の了解の重圧がそこにあり、新たに生まれるものを受け入れる余地がありません。
これがスムーズ(効率的)だと言えば終わるんですから。
しかし、一方では森川さんにメサイアを求めるのは、難しいと思います。
立派な方ですが、生きるのは自分ですから、彼らの意見や印象が自分になってはいけないのです。
効果や人間的な変容は期待出来るかもしれませんが。
また、難しいのは浮浪者で安定しているのも居るということでしょう。
坂口さんの本を同時に読んでいますが、簡単にダメな人と言うな!という印象を強く受けます。
彼らなりに工夫して快適な空間を造っている・・・ポジティブな見方をすれば、野性的で逞しく映るのかもしれません。
生きる知恵は、動く哲学とでもいうのでしょうか?
まぁ、どんな状況でもダメになっていたり、上手くいっていたりで、パターンはいくらでもあるようです。
困った時に手を出せばよろしい。
あと、いまだに力技で相手を変えようとするのが如何に多いか・・・いや、それがメジャーか?でしょう。
強かったり、説得力のある言動が巾を効かせると、たとえ小さな意見ですらも押しつぶされてしまいます。
メジャーになれば、小さな沢山の声は聞こえなくなります。
メジャーの本質である「正論」は強い刃物です。そう考えたらオープンダイアローグの師匠の言う「対話が無くなれば戦争になる」は名言でしょう。
まぁ、世の中には対話なんて要らないというのもいますから、少なく見積もっても彼らの存在は忘れるべきではありません。