オープンダイアローグ(森川氏の場合)
森川さんのオープンダイアローグを読ましてもらいました。
印象的要約はツイッタの通り。
もっと短く要約すれば、時間を決めてみんなの前で患者の印象を述べることです。
・ルールは患者が居ない時話さない。
・対話をする。
・目線は対人間
…などが、特徴的ですが、生活一般では強弱関係や利害関係、上下関係に絡め取られがちですが、どうすれば・・・いや、どうやって上の3つを守りパワー関係になるのを禁欲するかでしょう。
仕事もそうですが、経営的なモノは家庭にもありますから、より効率的で経済的なことを求めるのはいと仕方ないとは言えます。
実は森川さんのドキュメントを前に観たのですが、良くぞ自身のことをさらけ出し、語ってくれています。
言葉はたどたどしく感じましたが、一方では言葉の少なささえ十分なコミュニケーションだと思いました。
たぶん、印象論になるのですが「〇〇は優しくない」と言われたのはショックでしょうが、私から観れば虐待を起こさせなくする、一時的な鎮火・・・それが出来ていないという意味合いで「優しくない」と言われたのではないかしら?と思いました。
虐待・被虐待者関係はその場にある限り、続くのですし、その性質が分かっていればどうすればいいか?は分かっている人なりに工夫して来ているのです。
オープンダイアローグは出だした頃は「高級品」とか、そんなのムリとか聴きました。
人財、時間などのリソースをどう集めるのか?
たぶん、改良の余地があり、また応用することが必要と思います。
先にも言いましたが、対話のない・・・あるいは下手糞な、果ては必要のない土壌が対話を困難にしています。
しかし、本書の師匠がオープンダイアローグの歴史を語るなか「対話が無くなれば戦争になる」という言葉は印象的です。
世の中を左右、横を見てみれば、結論ありきな現実や人間関係がいかに多いか?が分かりますし、火を見るより明らか、言葉にしたら野暮、みたいな、世の中の固い岩盤のような仕組みというか、暗黙の了解を私は感じます。
仕組みや暗黙の了解はルールに変容しますし、それから外れれば叩くという事態にもなりうるでしょう。
ちなみに、ソースは忘れましたが法が新たに制定されるのが最近特に多いそうです。
仕組みにせよ、ルールにせよ、身を委ねて安穏とし、対話や柔軟さを忘れれば硬直してギスギスした世界が待っているのです。
監視カメラも増えました。
電車にだって付いています。
まるで、生きながら飼い慣らされたようです。
対話は大事ですが、何事でも方向性が発生したとき、強い意見が勝ち残るように感じます。
また、対話よりわかり易さや結論(正解)を求めるあり方も、対話を切断する要因にもなり得ましょう。
対話を続けるというのは正解を導くのではなく、印象(≒意見)の多様さを認めるシーンでもあります。