言うことは分かるのだけど②
私のような者は本来教育を語ってはいけません。
学校に居なかった者ですし、むしろ成功例や逃げ道を知る人間が言うべしでしょう。
成功例や逃げ道を教えれば肩の荷が降りるでしょう。教官自身評価性でしたら、向いていなくてもイヤでも子どもを引っ張ります。
そうしないと喰っていけませんから。
子供は金の木💵
『以下、個人や地域が特定されますので文章を歪めます』
学生時代、あだ名が「変質者」ということがありました。
開き直ればいいのですが、気になれば効き目バッチしの呪詛になります。
これを反撃してこない大人にも用いれば出社拒否や自殺にさえ繋がる強力なツールになるでしょう。
それで問題になったのは通報があったからで、以前から変な人が出没する地域でもありました。
たぶん近所の方がTELしたのでしょう。
そこで、近所迷惑だから「変質者」と言わないようにという御触れ(おふれ)が出ました。
(´°д°`)「はぁ!?」
・・・では、ありませんか!
近所迷惑だから禁止になったのです。
その人がイヤな思いをするだろうという配慮からではありません。
まぁ、個人が圧殺された時代がちゃんとあったのです。
これをムラ意識と言わずなんというのでしょう?
いまも正論というのが「皆」をアテにしたり盾にしながら、個人攻撃がなされることがあります。
要は「皆」に隠れながら弱い者を叩くというお猿さんと変わらない有り様なのです。
ボス猿志望者にとって集団主義(=ファッショ)は、憧れの場所なんでしょう。
森さんも言っています。個が弱いから群れる、と。
海外では知りませんが、群れると気が大きくなるのでしょう。自分のやった粗相すら皆に還元できるというご都合主義の極みでもあります。
さて、変質者の次は変態が使われました。
世の中、色んな呪詛があるようです。
さすがに、隠れてやるようになったのは騒ぎを起こしたら、とばっちりを喰らうだろうという危機感からでしょう。
時代は流れ巨大掲示板はともかく、老若男女がどこで自己浄化・・・カタルシスとして呪詛を使っているのでしょう?
呪いは自分に跳ね返ると言いますが「まさか、誰かに自分がやられていないだろうか?」という確認強迫から始まるようです。
その点、図太かったり、厚かましかったりする方がいいのは、気にしないからでしょう。