口下手とモノを書く
話すために生まれて来たようなのがいる。
話屋さんのようだ。
話というのもアウトプットであり、脳の連関が上手くないとできないものかもしれない。
専門家は脳科学はまだ実用レベルではないという。
果たして現実の精神活動と脳の働きは割り切れるものなのか?というものです。
これを言うとすぐこうなります。
心霊現象は真実である、と。
いや、そうでなくてもいまは脳科学が理由付けしてくれたり、発達障害などを理由に云々…ということもあるので、クリアカットに説明をしたがる傾向にあるでしょう。
YouTuberのキレの良い話し方みたいに。
私などは喋りができないため、このように筆舌みたいにするわけですが「喋る」というのも、一種の外向性であり、いかにそこで受け入れられるか?という話し方を知ってるか?知らないか?の違いのようにも感じます。
一番分かりやすいのは「甘え」のある環境なら喋りが出来やすい、というのがあるでしょう。
要はその場を「甘えられる」環境にしてしまうのです。
ある種のワガママであり、強さのようでありますが武器の仕えない現代では「言葉」というのがいかに切れ味が良いか?で強弱関係にされるフシは見逃せません。
喋りのできない場合、その方向に行くようにすれば良いだけですが、いまの風潮では協調性がかなり試されるシーンはあります。
いや、加重圧ということもあり得ましょう。
独特の世界観を持っている場合は煙たがられることがあります。
共通語喋れよ!みたいに、別の用件を使い嫌がらせを受けることもあるでしょう。
これも、忖度です。
さて、喋りというのも訓練の代物かもしれませんし、生来に習得せざる得なかった技術なのかもしれません。
口達者の脳と口下手の脳を比べると何か違いが分かるのかもしれません。
左右の脳のスムーズさが、口達者になると言われていますがどうなのでしょう。
経験上、発話の時に詰まる場合、吃音になる・・・というか、脳と口が遮断されたような感覚を覚えます。
たぶん、新しいシーンを体験しどう対処したら良いのか分からないというのがあるでしょう。
また、話していいかどうか迷うようなことなら、口ごもる事も考えられます。
吉本氏は喋りがダメだから、もの書きになったと言います。
恐らく当時はいまほど忙しくなく、複雑でもなかったでしょうから、ちょっとした知恵を出せば、それだけで注目されたり、生活出来たのでしょう。
いまほど、情報や活字が氾濫する時代はあったでしょうか?
新聞はさておき、ネットではニュースからSNS、あらゆるサイトに文字が溢れかえっています。
そうなると、どれだけ有用性があるかを競うのは当然のことでしょう。
有用性=お金
なら、YouTuberがどれだけ、目立てるように工夫しまくるか?がわからなくありません。