言うことは分かるのだけど(学校問題編)
A女史の児童向け書籍を大の大人が読んでいる。
私ですが。
素晴らしい1冊だと思う。
子供向けに分かりやすく、歴代の学校者たちの言葉を瑞々しく、そして自由に語っている。
これくらい、道があれば誰でも自由に過ごせるだろうなぁ、と内心思った。
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さて、まだ半分しか読んでいませんが、素晴らしいインタビューイーが登場します。
初めは登校強制論を唱えていたという疑いがあるドクターのコメントや、いまハラスメントで問題になっているフリー○クール始祖のが現れますが、どこのシステムでも問題の大小は出るのでしょう。
だって人間だもの。
後光さす神仏ではありません。
良い面はあるのですが、気の毒な方は表に出てこないという不条理がこの世にはあるのです。
ポジティブシンキングなう\(^o^)/
本書も佳境に入り後半も期待したいところですが、やはり疑問は膨らみます。
まず、過去の非行が今の非行のスタイルに通じるか?ですが、どうでしょう。
いまもむかしも、システムからの脱出はあるようですが、いま貧困というものが加わり事態を難しくしているのではないか?と私は邪推しています。
たとえば、不登校などはいまは当たり前のスタイルとして語られますが、むかしは「負け犬」とか「逃げの小五郎」などと、親子共々泣けた時代もありました。
弱いやつが逃げるのだ、と。
かと言う私などは、つるむのは苦手で学校に居ない方がありましたから、繁華街が教室な面も無くはないです。
文化祭・体育祭は抜け出したい代物。
でも、いまの常識からしたら贅沢に見えるでしょう。
貧困家庭が目立ちますから「知識経験を粗末にする何という外道!」などと罵られても仕方ない。
いまもむかしも、共通するのは体罰でしょうか?
むかしは見せしめに張り倒されたとか、学友に罠に嵌められ教官に折檻されたとか・・・いや、子供も狡いです。
たぶん、今の子に非行とはなにか言ってごらん!と言ったら、本質はやはり多少昔と違ったことを言うかもしれません。
学校に行けて当たり前の非行と行けない中での非行は違ってきます。
それですから、行けて非行に走るというのは目立つのです。
しかも、子供もそれを直感してますから、やること(悪いこと)が大人しくなるのは当然でしょう。
不登校・・・どうなんでしょう?
なかには、バリバリ起業して稼まくっているというのもいるらしいですから、時代は自由になりました。
学校に行かなかったから成功したのか?元々、素質があったのか?
小学生ですら考えようによっては大検を受けられるん(年齢制限あるのかしら?)ですから、出来る子は飛びに飛んで行きます。
これも、新自由主義と実は相性が良かった!などと後世で分かるかもしれませんが。
名越さんはどんな人にでも才能はあるといいます。
また、大槻さんは逆にひとつ輝けるものがないとヤバいと危機感を煽るセリフを残しました。
まぁ、「あるはない、ないはある」と老子や道家ではありませんが、最低限の守備くらいはあっても良さそうです。
なかった場合のシュミレーションは早い方にしたが良いでしょう。
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私の印象では人間のどこか悪い部分があって回る気がします。
河合氏が申しましたように、一概に非行・・・不登校は良いなど言えず悪いなども言えない、様々な面があると思います。
サボって非行がエスカレートしたなんてのは、果たして世の中の問題か?と切ってはいけない気もします。
更にいえば、非行を悪用するのもいるでしょう。
私は学校に居なかったと言いました。
もっと居ないのも居ました。
人を弄ったり、賭けが上手かったり、ソッチが早熟だったり、教官の態度や心理を見抜く観察眼に長けたり…と。
要は悪用の部分が大きくバランスが取れているのです。
もちろん、そういうのは倫理とか程度に関心がありません。
自己利益優先型の何を取りいれば得か?と。
得なら学校をサボって適当に非行をやりながら出る。
・・・たぶん、この手の難しい問題が出てくると思います。