不思議の国の…
昔話が面白いのは分かります。
脚色なしでアニメーションなしで楽しむ場合、脳内イメージが働き、さも私の主観の延長な感じがして錯覚を味わえます。
これは小説でも同じで、どうしてもドラマや映画となれば、俳優や舞台が現実のものへ分化してしまい「そういうものだ」的なものになります。
絵の力とはそれほど強いです。
私などは不器用ですから、ドラマや映画を見ながら何かをするなんて昔から下手で、音楽を付けながら本くらいが、ちょうどいい感じで今日まで来ました。
映画やドラマが現実感が強く感じるのは、小説を飛び出し現実へ着地し命を持ってしまったからではないか?
あるいは、映像化することで人間味が増し、あるいは現実感が現れ、その分自分の体内にあたかも飲み込みにくい何かが入ってしまったようなものでは無いか?
まぁ、映画の悪口を言っているわけではなく、趣味の問題です。
リアルとなった映像には、美女イケメンが採用され爽やかさを醸し出しますが、文章ではそうとはとれず、落ち着いたモブキャラにだってイメージできます。
文章の欠点は内的なイメージを練る訓練になりますが自己完結型しやすい。感想を共有した際は互いの了解可能なあたりに話を落ち着かせることが出来ますし、新たな見方、発見もできると思います。
ただ、所詮は文(ふみ)です。
誰かといつでも同じものを読んでいる訳にはいきません。
流行りモノを読んでいれば、話題を共有できたり、コミニケーションを活性できますが、なんだか落ち着かない。個人的なイメージの発掘にはやや遠くなりますそうです。
しかし、これがなぜ売れるのか?という作家も中にはいます。
皆に読まれているからとか、現代風潮を鋭く描写してるからとか、物事の洞察が深いからと言いますがどうでしょう?
ある作家は物語は自分の内側から発せられ、それがなぜ起こるか?などは分からないと言いますが、他にもそれを口にする人がいる。
なぜ書いたか?は自分でも分からない、と。
1人格好いいこと言えばそれに釣られる。
別に真似しなくても良さそうですが、そうすればあたかも無意識から出てきたように見える。
あるいは見せる。
しかし、程度もありますから、無意識から出たと言っても、時分の欲望丸出しとか、はしたない自分をひけらかすのが、無意識から勝手に出たというのは、眉唾ものであります。
ゆえに「昔からから勝手に出た」というのを乱用すれば、いつかはウソを書きます・・・というか、ムリが来ます。
小説自体が虚ですから、あくまで可能性の世界であり、作家自身も虚にある程度なっているな?と読んでいて分かります。
児童書などは、児童…あるいは学校をとりまく世の中の観察文みたいなところがありますから、まぁ、それは作家の意見でもあり印象が載っているな、と見た方が良さそうです。
それでも現場のいち信実は語っているわけですから、後は読み手がそこから妄想をたくましくすることにかかっています。
えげつないことも文章になりえますが、どうすれば個人を虚にしてえげつなくできるか?
たとえを使うのもありでしょう。
一般的な行為から暗喩やメタファーで、読み手に悟らせるのも手です。
そのままの欲望を書けばえげつないですが、読んでいてイヤになる事があります。
だって、モロに書いた人の脳なんですから、読んでいて気持ちが悪いわけです。
誰も、そんなことはしたくなくて、実は欲望でもそうですが、えげつなさにも一般性や普遍性まで、落として書けば読み手も分かります。