働く人(考える人は如何に?)
酷いこととは、どこはか惰性なところがあり、それがフツーに行われていたり、前から広まってくると直しが効かなくなる。
人材なんてのも、そう感じなくないし、現場員貸出なんてのも、法治国家で人権が、あるのかしら?と思う。
「みんなそうしているから」とか、独善的に正しいことを推し進める人のなど見ると、どこか「人権」というのをどうやってか排除しようとしている、ように見える。
まぁ、タテマエは人権を謳ってよろしいが、内実…本音などは、権力めいたことが渦巻いた、とんでもないところである。
できる、できないは仕事にせよ、勉強にせよ、得意不得意はあっていい。
しかし、誰かの文・・・森川さんの本には効率化により、不合理な点は無いものにされてしまう00年代があったという。
残念ながら、人間というのは良いも悪いも慣れる生き物だ。
たとえ、その状況というのが好ましくなくても、順化してしまう性質がある。
それに異議を唱えたり、心身症になっているのが、あの坂口さんなどのクライアントだったり、生活習慣病患者だったりする。
人は生きる上で自らを歪めている、とは神田橋老師の言葉だけど、生活習慣病というのを年数を持って醸し出していくのは、果たして個人の問題か?
個人にできるのは心機一転して、転地療養をしたり、生活をひっくり返すことで、そうしない限り、心身の具合は悪いままだろう。
仕事というのに、宴やいやらしい話が付き物だとしたら、セットとして将来に高血圧や糖尿が、約束されているのではあるまいか?
まあ、酒の席なんだから…と、どんどん注がれて逃げられない。
責任は誰か?といえば、全員にあるのだろうが、実は分散させたり曖昧にさせることを文化の病として、作ってきたのではないか?
また、原発のはなしでいけないが、たくさんの規制や官庁、企業が絡むことで、その責任の所在はより曖昧になる。
もちろん、これが誰がいけないとか、どういう構造でいけないなど、事後研究でもすればいいのだろうが、それをしたら自分の首をしめるから皆それが出来ないことがある。
もちろん、首を絞める覚悟がなければ後世も似た様なことをやるだろう。
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さて、夜中に握り飯を握る私ですが、シソ握り飯を幾つも握り、冷凍して後日に備えます。
手がシソになりそうです。
昼などは自作弁当ではなく、握り飯です。
シャケ。
弁当はどうもゴミ箱がないからいけません。
この空き地にも数年まえから、ゴミ箱が撤去され、看板にはゴミを持ち帰るクリーンな家族がイメージとして描かれていました。
ビニール袋にしても、画期的だったものが今頃悪く言われるというのは、どうも道理に反しているような気がしてなりません。
何らかの・・・それも「皆に」とか、大規模な悪影響があるなどと言い、廃止や撤去がなされる時、注意しなければなりません。
あと、皆のためとか、世の中に綺麗なとか、言い出したら、疑うことも大切です。
ニュースなどは日夜飛び交って居ますが、吟味しないだろう、くらいに出す方もしているのなら、より見る方も受け身になるでしょう。
何かに精査・・・追求する姿勢があれば、ホントか?と疑う科学的な姿勢が身につく(と信じたいです)。
皆がやっているからと、右ならえしていては集団的に危機に突入することも、なくないでしょう。
自然公園は良いです(お昼)。
青梅はウメッシュの材料です。
青酸毒がありますから喰ってはいけません。
まぁ、深く考えるというのが、アホどころか発達障害扱いされるんですから「どっちがアホか?」と突っ込みたくなります。
そんなら、昔の学者や最近の科学者なんかどうなるんでしょう?
熟考という言葉があるくらいですから、サッサと答えられないことを考える・・・そんな人がいたり、人間考える時間だって、生きていれば必要です。
あの、ねじまき鳥クロニクルの「井戸」でさえ、ここは熟考するのによいところだ、というのですから、思慮深いというのは、この世には必要だと思います。