梅の木と私(私事)
地方出張とカッコイイこと言ってみたいですが、なんの事はない。
ただ、近いからオマエ、そこ行け!
な、ものです。
派遣社員・派遣員が重宝がられたのは、その腕前にありました。
職人として買われていたのです。
しかし、要領によって職人など安く買えると分かってきたので倫理や人権など、うっちゃっておけば、儲かる。
研究者ですら、職人の性質があります。
その道のプロというのですから、理論はもちろん、手技などにも通じている、ただ、それだけで大事にされるということは、誇り・・・尊厳にも繋がります。
ある心理学者には、ただ生きているだけでいい、というのが通用しない世の中云々、言っていましたが、この国は機能主義的な部分があります。
何かに秀でていないと根性に持っていく嫌いがある。
世継ぎが無能なら、養子を迎えたという要領が歴史には残っていますから、重きは昔から世間にあったといっても言い過ぎではない。
昼の握り飯を喰らいます。
ゆかり握り飯です。
「ゆかり」というネーミングがスナックを思わせますが、まだ太陽がある時間帯ですから、早いです。
水商売は顔色を曇らせる話になり得ますが、アレだって話を上手く聞けなければ商売になりません。
上手く○○できる、というだけで能がある。
よく、規制を強めればいいと言いますが、逆です。
ルールを最小限にして自由にしていれば、段々やる方も程度が分かってくる。
近年はルールがたくさん作られたといいます。
それに、ルールを前に出しながら上手く話を組み立てていくやり方がよく目立ちます。
ここまで、ハナから法を持ち出すというのは、ギスギスしますが、個人で解消したり工夫したりするのをサボってきたように見えなくありません。
ルールにより安心するというのは、どこか暴れる何かをツボに閉じ込め、そこに重い蓋を乗せているようで、なんかおかしい。
梅の木。
いまは八百屋に行けば梅が見られますが、公園も委託の委託(孫請け)になっているのでしょう。
落ちているものは見当たりません。手を伸ばしてゴミに入れているのでしょうか?
腐敗した果実は浅ましいですが、なったり、熟れたり、落ちていく梅というのも風情があります。
子供にも梅や梅の木というものが、分かって良いと思いますが、会社の決まりなのでしょう。
そういうサービスはやっていない。
坂口さんなどは、自分の中にある子供を無視しているのが多いと言いますが、まぁ…そうだとしたら、現実に生きた子供なども目に入っていないことになる。
好奇心の塊がアチコチに向かうように、それはいけない、そうすると生活(≒仕事)にならないとして、大人世界ではあってはならないとされます。
この点は養老先生と似たようなことをいいます。
「意識は都市、身体は自然」と。
キャッチボールなども理屈っぽい親御さんを見かけます。大人世界からの言葉ですから、果たして子供に伝わっているのでしょうか?
いや、私自身がそこまで理解できないかもしれない。
忍耐や根性などでもいけませんが、理屈っぽいというのもまた、育てるという見方からしたら、疑問に思います。
身体で・・・成長しながら、覚えていくというのが理想ですが、どうしても待てないのもいます。