本を読んで××される(あと、日々のこと)
その昔、本を読んでいたら取り上げられたことがありました。
コミュニケーションに加わりなさい、と強く注意されました。
TPOにもよるのでしょうが、昼喰っている時ぐらい、自分の世界や妄想に浸りたいものです。
日常の…日々同じような顔ぶれにばかり会っていては、息が詰まりそうになります。
よく、ヌポン人はそれを平気でこなす、タフな連中か?と、今まで2-30回は思いました。
まぁ、ツイッタなんかになるほどな、意見がありましたけど、要は人と壁(≒殻)を作っているというのもうなずけます。
人間執着気質な連中と居れば…
ヽ(`Д´)ノ「自分の殻に閉じこもるな!」
などと、喝を入れられそうですが、ボノボじゃあるまいし、そんなスキンシップじみた事して、酸欠にならないか?と思わなかったり、しなくないです。
ここまでいうと「反日」のように思われてしまいますが、ある種の時代的な流行りといいますか、テーゼ、言説、風潮なども、賞味期限付きの流行のようなものでしょう。
「読書」などは、個人の気質や性質ではないか?と思うのですが、これだけネットが発達しており誰でも考えなくても、答えは「ポチー」で出てくるのですから、白痴にならない方がおかしい。
むしろ、考えるよりも速く回答(解答?)できるのが風潮にあります。
「気質」といいました。
各々の気質、性質を言える時代はボンビーでも、豊か・・・放って置いてくれるものがありましたが、いまは一億そうです。監視社会ですし電車の中でさえ、Recされてる時代です。
これでは、疑わしきは罰せずという訳にはいきません。
不安もそうですが「危険分子」をいち早く排除しようとというのは、ビジネスですがビジネスした分、息苦しくなったり、安心どころか休む暇もない、状態にもなりかねません。
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さて、昼にある意味ご馳走を喰いました。
解凍カツ丼です。
薄いカツを卵とじしたヤツを半値で¥150で前に手に入れたのです。
厚いカツはデパ地下や駅チカに行けばよろしい。
あの1個の値段でカツ丸々とメシまで付いて来るのですから、儲けものです。
しかし、特別な日やご褒美で薄い文庫本みたいなカツは食ってみたいです。
現状ではお漬物すら付いていないのですから。
ところで「発達障害バブル」というのがあります。
ホントなら些細な性質だったり、別の病だったり、ただのイヤな奴だったりするわけですが、どうしてもレッテルを貼らないと落ち着かないようです。
私などは、コレ、コミュニケーション・話に合わせない・・・合わせられないから、発達障害云々ではないか?と邪推や妄想を膨らましているのですが、少し落ち着いてみなければ分からない状態ではないか?と思っています。
神経症的な拘りが、人間を正常、異常を作り出します。
まぁ、メタファーというか、直感的には不況ゆえに、他人を蹴落としたいキャンペーンが隠されて、その歪んだ表出方法なのでしょうけど、要は…
「使えないからどっか行け」
を、オブラートに包んで言っているようなものです。
まえに、ヌポンの機能主義について書きました。
機能しなければ酷い目に遭う、といムラ社会の本質・・・結晶がそれだとしたら、神話由来の「蛭子」をどこかへ流してしまうという、ある種の残酷さは神代から変わっていないことを意味します。
凄い国に住んでるんです。
ハンディを持つ人も上手く隠して健常者のなりをして生活してますけど、見た目が悪ければ経済は回らないという本質が見え隠れしています。
・・・ああ、愚痴っぽくなりました。
カツ丼は定型の味でした。
スーパーのチキンでなく、KFCのが喰いたいけどKFCでの要領(作法)がわからないと嘆いていた隠者がいました。
私もテンヤなど余程じゃない限り入りません。
外食は長い目で見れば高くつくからです。
墨田界隈あるいは忘れかけたCOVID
用あって押上に向かいます。
信用にならない天気をアテにして小ぶりな中、蔵前通りを西に走ります。
亀戸カメリアまえ。
晴れならスカツリが見えますが、今日は下にまで降りた雲に覆われ根元も見えません。
(´・ω・`)「近くの中華屋のレバニラ丼を喰いたい」
井ノ頭さん、喰うとこ美味そうに演技するネ。
今日はメモ欄にしません。
後になりますが、土日の錦糸公園まえは人がいっぱい歩いていました。
疫病など無かったかのように、生命力の躍動は凄まじく、経済活動は生産という、エネルギー循環を思わせました。
→要はマスクさえ付けておけば、どこそを歩き回ってもいい、みたいな。
浅草通り。
見てわかる通り、低い霧のような雲が資本の象徴をすっぽり覆ってしまってます。
押上駅。
ソラマチ商店街やLIFEの入ったホテルなど、景観とデザインの趣向に熱の入った建て方をされていました。
・・・そうです。私はソラマチを通るだけで、スカツリも登ったこともないのです。
何も知らない。
ソラマチ商店街入口。
ダイソーを見ましたが、必要なものしか置いてない感じでした。
4階からスカツリに登るのだそうですが、私は別に用があって来たのです。
それでもチラ見していきます。
妖しいとこではありません。
焼き魚やパワスト(※)、タコせんべい、マツキヨなど、時代を先ゆくお店が揃っていました。
何せ看板である1階です。奇異なものというか、人目に付くようなものを奥センスが試されるのです。
(※)パワーストーン
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用が終わりましたが、ソラマチ商店街で買い物はしません。
アルカキット錦糸町。
「アルカキット」にどういう意味があるか分かりませんが、使い安ければ何でもよろしい。
ビッグなダイソー、UNIQLOやマックも入っている北口のモールです。
何気に錦糸町は特急が停るのです。
濡れたビルディングというのも、人少なければ何となく乙に感じます。
遠い1000年先にある未来の廃墟の予感が漂います。
・・・ここに文明があったのだ、と、
亀戸業スー。
お財布と生活に優しい店です。
プラス、低価格ですが商品のバリエーションにより生活に華を咲かせてくれます。
ここは、亀戸神社の反対の道を入ればあります。
さて、今日は帰ってスカツリでも登った夢でも見ようか。
厩橋から。
画像は今日と全く関係ない過去のモノです。
長雨を避けて新宿へ《更新》
伊豆で土砂崩れがありました。
久々の大雨で地盤が緩かったのかも知れません。
鉄砲水のようだったと言いますが、土も水も混じり合えば、一体どこへ流れていくかは分かりません。
水はただただ、上から下へ流れやすい方を目指すのです。
(´・ω・`)「どこで何があるか分からないな」
さて、昨夜からの長雨が上がり曇天を新宿へ向かいます。
亀戸コジマ前(亀戸梅屋敷)。
少し行き、右の方には神社があります(通るのはいいけど入った試しがない)。
注意して見ないと見落とします。
雲に突き刺さるスカツリ。
たぶん、塔から外は真っ白に見えそうです。
今日の午後は貴重な晴れ(乾き)になるでしょうか?
「孤独のグルメ」で有名になったレバニラ丼の店もやってました。
死ぬまでには喰ってみたいです。
特に言う事はありませんので、メモ欄を付けときます。
メモ欄「 」
鳥越神社。
ここも、お祭りをやるのですが、COVIDのせいでしょうか?ノボリも立ちませんし、元気や粋がありません。
R4や妖精さんと大きなお友達の住まう街、水道橋駅などを抜けます。
飯田橋駅北口。
南は九段下、北は池袋に向かいます。
この通りの反対側にジャンボ餃子の店があります。
郵便局から駅にかけてザワついています。
走りやすいのは大きな通りに限ります。
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用を済ませました。
最近は西口でくつろぐことが多い。
くつろぐと言ってもBOOK・OFFで古書を物色するだけですが、COVIDで安い店も入れませんし、駅前などは佇んで居るだけでも警備員に目をつけられます。
お巡りさんではありません。
まだ、私には帰る家があります。
いつか無くなる自宅に帰りましょう。
御苑トンネルを抜けたところ。
まぁ、新宿も道は複雑です。
北は戸山、南は原宿や青山に向かえます。
慣れないとどこへ向かうか分かりません。
四ツ谷駅。
外堀公園はいま工事中で入れません。
新宿寄りの大きな公園もありますが、警備員がやたらと多いです。浮浪するのが難しい時代になりました。
上智とイグナチオ。
ソフィアは叡智(英智?)という意味です。
そう言えば、ヘ○な私大は宣伝広告でうるさく言います。宣伝しなくても来るものは来る、堂々たる風格です。
私などは逆さに振られても入れません。
麹町~千鳥ケ淵などを通ります。
竹橋駅の五輪筒。
一ツ橋や明治、日大など、学習街が近いです。
善悪、白黒、常識非常識の価値を抜けば、後世にプレミアの出る筒でもあります。
大手町~新日本橋を過ぎます。
浅草橋。
錦糸町までは、都心感が保たれていますが、亀戸を過ぎると東東京感が出てきます。
両国~亀戸~蔵前通り平井などを通り帰りました。
長雨は海の底に似てる
いまや生き物が海から上がってきた、という教科書的な・・・基本的で素朴な太古を誰が純真に驚くだろう?
信じるものがあった時代には、GWなどに海に大勢して出掛け芋洗い状態になるのを、さも生命の起源ゆえ懐かしむという、そんな昔もあったのだ。
まえにやっていた分からないけど、とりあえずやることが、現代になって分かるなんてのはありうる。
時間的余裕が出て状況を冷静に見られるのだ。
一体、あれは何だったのだろう?
・・・ああ、こういうことだったのね、と。
村上春樹氏も文化文明はナチュラルで必要悪を含んでも、そうなってしまうと、言っていた。
必要悪を混濁した世の中。
「この世は暴力的な世界<中略>気を付けても気を付けすぎることはない」
また、必要悪が自分にもあるがゆえに他人のそれもある程度見逃すことができる。
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風呂を洗う。
掃除機をかける。
水場を磨く。
いまは何気にできているけど、抑鬱神経症などにかかれば、それもできなくなるのか?
むかし、大うつ病と言われたものも「障害」の名が冠せられて、差別化が気付かないところで進行している。
物事には因果関係があると安心するものだ。
病が出れば、先祖が悪いとか、病の血が流れているとか、人間ゆえあたかも、その水源のようなところ・・・いまをクリーンに保っておき、手の届かないところ(過去など)に厄介なことをおく。
蟲師などが、どこか懐古的であるけど、グロテスクで、生命的で性的なニュアンスを含むのは、原始的なもの・・・本来あって当たり前なことを無視せず、含ませながら描いている。
根源や原始をありのままに描くと、そうなってしまうのかもしれない。
出土する土器人形に地母神が出てくるまでいかなくても、大地に繋がていたいとか、生命を分かりたいという、内的な生命現象が触発されるのかもしれない。
ゆえに、恐ろしいけれど、魅力的な作品となる。
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選択はニュートラルに(現在は自然発生である)
若い子は探せば悪いことはしているかもしれない。
いまは暴走なんてのはなくなりましたが、形を変えた暴力性なんてのは、ところどころあるものです。
それが、巧妙かつ見えなく、賢くなってきているというか。
その暴力性というのは、前世代が手本や前駆体と言うのは分からなくあらりません。
鳥が親を見るように羽ばたけるように、良いものを習えば悪いものも習います。
1番、影響力のある状況で感化されるとしたら、親でなくてもよろしい。
コイツが一体何に染まったか?と芋づるを引いて探っていけば、何か出てきます。
まぁ、10歳前後で倫理(≒加減)は出来上がるといいますから、昔から躾はそれくらいにやっておけ!はあながし嘘ではないでしょう。
いまは、超個人主義(プレ個人主義)と新自由主義がありますし、それもあって子も大人と対等な扱いがされますから、いまの子が新人類・・・世代間の考え方が違ってくるというのは当たり前です。
むしろ、生存適応ゆえ、そうならなければどこかおかしい。
ご老人も分かってますから、時間差で電車などに乗っている。
なにが分かっているか?
座れない、弱ければグダグダいわれる、足引くやつは乗るな!の目線が刺さるなど、ある意味、更新国並の、サバイバル感覚・・・強さが求められているのです。
これが、昔なら「とりあえず」の名目で老人には優しくしなさいと言われてましたが、考えてみれば「こぶとりじいさん」にだって、悪い年寄りが出てくるんですから、年寄り全体が人間性ができてるとは限らない。
しかも、個別的に見るのはやはり神経を使うから疲れます。
ゆえに、スマホなどに熱中して現実逃避して過労を避けるのが賢い。
養老さんなどは「これができない」のだから、それを周りがその分やるのだから、それが仕事なのだ、といいますが、余計な仕事を作っているのが現代なとこがあります。
早い話、電車などに老人車など付けたらよろしい。
賢い人はサバ読んで乗るでしょうが。
こんなんですから、倫理も程度もヘチマもないのです。
カネ(=自由の換金券)が大事なんてのは若い子も直感的に分かってますから、賢く振る舞い、しこたまもうけたら株でもAIに任せて楽しようとなるのが当たり前です。
ついていけない先行世代などはアホになるわけです。
就職氷河期などやった人間は前例を作っていると同時に、後世代から見たら御時世から失敗例を見て学んでいるところがある。だから…
(´・ω・`)「あんたら一体何やってたんだ?」
と、軽く言えるのです。
さて、生命倫理から話がだいぶズレました。
科学にせよ、分からんものはカネが出ないというのは、斜陽なヌポンではなって当たり前なとこがあります。
五輪ピックどころではないはずですが、海外からのカネをアテにしたり、過酷ボランティア・バイトで中抜きを目当てに「いま」を何とかしようとしてますから、科学の基礎や自然観察眼など、モノを観る余裕は生まれやしないでしょう。
やるなら、自ら少ない人生の時間を削ってこの世の真理を見つけるしかありません。
科学には「法則性」を見つけたりするのも基礎ですが、大学広告がうるさく「効果性」を、謳い文句にしてますから、科学のではなく、単なる生産技術みたいなものでしょう。
選択はニュートラルに(生命倫理編)
科学哲学の本を読みました。
何を言っているのか正直分かりませんでした。
科学技術については、いま進みすぎて一般凡人にはついていけそうにないとこに行ってしまって・・・いや、ついていけないのは私だけです。
教育は基礎に当たりますが、世の中に出れば各々、特化した知識で仕事してますから、果たしてついていけるものなのか?
その前に、採用されないと話にならないし、カネ目当てなら興味などあまり関係ないでしょうし、技能というか、知性に磨きをかけるというのが疎かになります。
カネの国。
知能や運動能力は個人差はあります。
残念ながら選んだり、取り外したりできるものではありません。
だから、試験管ベビーになるのです。
格差がここまで広がれば自然にそうなるのがおかしくない。
あそこは、出自が良くないから良しておこう、となる。
女性などはおかしい、おかしくないという嗅覚に優れていますから、必要ないと思うのですが、まぁ…念には念を込めてでしょう。
私ごときが久しぶりに真っ当な考えを述べるとしたら「状況により生命の選択は出てくる」というものです。
しかし、これも操作的に外部からやられているなら、話になりませんがとりあえずです。
状況が悪いのに余計な面倒を起こさない、というのは護衛であり、将来への予防です。
その状況から何が言えるのか?
予想できることは?
将来、そのリスクとムリしながら付き合わねばならないか?
なら、やらない方がよろしい、という選択はあっていいと思います。
本来なら「できない」状況にカネを渡せばいいのですが、楽しみ・・・それも無限に湧く欲望にカネの木に水をやっているから、話はややこしくなるのです。
本当は、物事は単純な方が好ましいのです。
さて、遺伝子選択などはネットを探せば、暗に出てくるはずです。
今いる人にとっての選択主体ですから、将来に出てくる人へは選択権はありません。
変な言い方をすれば、擦れた賢さがある・・・いや、賢さの精度が高いといいますか、当たり前ですが時代によっても状況は選べませんから、最良の選択をした!となるのです。
ゆえに、試験管ベビー賛成!となる。
今後のリスクは選ばない、というのはマーケット的ですが、逆にいえば最良・・・良好にしていくには、どこか将来に対して埃を払わないとならない部分もある。
たとえば、カネも知能もない私が急に明日から会社を立ち上げよう!医者を目指そう!などというのに似ています。
これは、夢がないというのと同じですが、同時に現実的でもあります。
慎重に生き物が荒野を渡るようなものです。
「いま活かせる部分を使っていこう!」という健全でもあり、セコい考え方でしょう。
なぜ、セコいか?
余裕があれば広がりがある事はできますが、そうでなければ、必然、むかし出来たことも控えよう!怒鳴らない方がおかしい。
いきなり、舵を切るというのは、そのシステムがデカければデカいほど、危なくなる。
現状維持というのがときに「中くらいの医者」といわれるのは、誰しもが時の名医・・・革命家になれる訳では無いというのを物語っています。
あるいは、良かれと思っても全体的にはよろしくない、何てのが出てきてしまいます。
生きることはふざける事でもある(戯画)
都内出張編の三弾です。
出頭でないからまだいいものの、事件性があれば危ういでしょう。
帰りに隅田川付近を通りました。
大雨のせいで酷い色してます。
江戸前はぜ・ウナギとありますが、神田川などにいけば、ドブとザリガニの匂いがします。
果たして隅田川産のウナギで食欲が湧くのでしょうか?
酷い色と凄まじい匂いになるからこそ、都市河川は暗渠排水になっていきます。
纏(まとい)と五輪。
森下駅・・・北は両国です。
思うのだけど、五輪がお祭りだとしたら、少なく見積もっても国内だけでなく海外でもCOVIDで死人が出てるんだから、ある意味、顰蹙者じゃあないか?と、そんな気がしないでもない。
憐れみや鎮魂が要るならば、喪に服するという意味も込めて、ジッとしているという選択もありうるのではないか?
海外でも死人が出ているのに行う五輪。
(´・_・`)
森下駅から東に向かうとビルディングは減ってきます。
大横川。
北は江東橋があります。
浜町から来る道には幾つか川を渡りますが、暗渠になっているか?親水広場になっているか?でしょう。
横十間川にクローバー橋があり、ハゼや黒鯛が回遊してくるそうな。
住吉駅前。
道路を挟んで北と南にある巨大公園です。
私はそこまでヒマ人ではありませんから、入ったことはありません。
地元の人なら分かるのでしょうが、江戸川河川敷や中川で十分間に合っています。
また、付近では都立木場公園などもデカいです。
何気に公園はあちこちにあるのですが。
ドンキやキッチンダイブなどがあり・・・まぁ、緑の少ない都内な印象です。
スナイパーのように拡大する。
現在、金欠中かつ倹約生活ですので、買い弁当は控えめになります。
なお、京葉道路は亀戸を過ぎると道が悪くなる。
有料高架の下などはボコボコな感じです。