Nightapollon’s diary

元のブログが行方不明になり作り直します。時にディープな事を言いますがスルー(見逃)してください。

長雨は海の底に似てる

いまや生き物が海から上がってきた、という教科書的な・・・基本的で素朴な太古を誰が純真に驚くだろう?

 

信じるものがあった時代には、GWなどに海に大勢して出掛け芋洗い状態になるのを、さも生命の起源ゆえ懐かしむという、そんな昔もあったのだ。

 

まえにやっていた分からないけど、とりあえずやることが、現代になって分かるなんてのはありうる。

時間的余裕が出て状況を冷静に見られるのだ。

一体、あれは何だったのだろう?

・・・ああ、こういうことだったのね、と。

 

村上春樹氏も文化文明はナチュラルで必要悪を含んでも、そうなってしまうと、言っていた。

必要悪を混濁した世の中。

「この世は暴力的な世界<中略>気を付けても気を付けすぎることはない」

 

また、必要悪が自分にもあるがゆえに他人のそれもある程度見逃すことができる。

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風呂を洗う。

掃除機をかける。

水場を磨く。

いまは何気にできているけど、抑鬱神経症などにかかれば、それもできなくなるのか?

むかし、大うつ病と言われたものも「障害」の名が冠せられて、差別化が気付かないところで進行している。

 

物事には因果関係があると安心するものだ。

病が出れば、先祖が悪いとか、病の血が流れているとか、人間ゆえあたかも、その水源のようなところ・・・いまをクリーンに保っておき、手の届かないところ(過去など)に厄介なことをおく。

 

蟲師などが、どこか懐古的であるけど、グロテスクで、生命的で性的なニュアンスを含むのは、原始的なもの・・・本来あって当たり前なことを無視せず、含ませながら描いている。

根源や原始をありのままに描くと、そうなってしまうのかもしれない。

 

出土する土器人形に地母神が出てくるまでいかなくても、大地に繋がていたいとか、生命を分かりたいという、内的な生命現象が触発されるのかもしれない。

ゆえに、恐ろしいけれど、魅力的な作品となる。

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