雑記シリーズ②(事大を読み解く)
相模原事件の新事実系な記事を読みました。
まぁ、感想といえば「どこも似たり寄ったり」な感じがしました。
大昔、援助の仕事をしたことがあります。
支援者もある程度狂わなければやってらんないところがあり、業の深い仕事に思いました。
スケジュールというのは、最大かつ最悪の強固なシステムでして「型」を通して仕事をしなければ、認められない・・・仕事とみなされないのが、常です。
援助柄、女性の酒豪が多かっですけど、どこかで憂さ晴らししないと、神経が持たないというのは仕方ないと思います。
「定型」にしないと仕事と見なされない、というのはどこも似たようなものと思います。
調子の良かった時代みたいに、ある程度の自由や幅の広さが、勤め人に融通ができたと思いますが、いまは評価が単一になっていますし、頑張りどころも単一になっています。
「それをしないと××になる」というのを重箱の隅をつつくみたいに、やっているのが現代ではないか?
これをファッショというのも分からなくありませんが、要はこれをやらないと認められないゆえ、そうせざるを得ない環境があるのです。
だから、イコール権力的になってきます。
「そうするのが効果的だ」なんてくれば、義務やルールに発展していくのです。
私は思うのですが、効率化の極みがアウシュヴィッツみたいな環境に流れていくなら、それを省みる機会がいけないのではないか?と。
たとえ、サービス提供先でも虐待のようなことが見え隠れするようなら、それは小アウシュヴィッツのようなものでしょう。
それを人間、分かっているから口に出さないし出せやしない。
相模原の被告に悪い印象があるのは、まさにスケープゴートの類(たぐい)でしょう。
麻薬(Grass)をやったとか、変な思想に被れたとか、出来が悪いとか、人格が凶変していったとか、本省は発達障害だとか。
とある、イカサマ心理士は「仕事は人間をくるわせるところがある」とイカサマらしからぬ琴を言いましたが、事実だと思います。
その人間の性質が悪いのではなく、悪くなる環境がある、という場合もあるのです。
では、悪い性質にならないというのは何か?
「強さ」でしょう。
生命力というか、ある種の厚かましさ、ヒトを押し退けてもやっていける攻撃力、競争社会でもよじ登っていけるタフネス。
そこで得られるまともさは、屍によって立てられているのではあるまいか?
残念ながら、人間には強弱、健常とハンディ、老若男女などを含めても、どうしようもならないヤツもいるのです。
いまは、弱者からの視点で書いていますが、今野さんの文章など読むと、暴力をするために生まれてきたような存在が居なくはないと感じることがあります。
「この世は娑婆であって極楽(理想郷)ではない」
というのは、美輪○宏の名言ですが、極楽でないからこそ、守ったり攻めたりしないといけないこともある。
時々、産業医などの言う言葉が綺麗すぎるのは、邪悪をやる人間にとって無視も無効にもできる、なかなか効果のない言葉でもあるからです。
ところで、カーストという言葉がありましたが、若い子だけではありません。
老若男女、全てに関係があるのです。
故河合さんなどは、対談で「やっちゃいけない」の味をしめた当時の40代(今の50-60代)はどう勝ち上がれるかを知っている、と言いました。
また、U師匠なども戦中後の人間は人間の妙味を知っていたが、その妙味を分からないのが増えてきたと言いました。
妙味とは(手)加減のことでもあり、そこまでやっちゃマズイだろ!みたいな塩梅を分かっていることです。
階層二極化に加え、下層というにも能力ありながら報われない存在も居ます。
気の毒には思いますが、頭打ちにしてしまっている世の中ですから、どうしようもありません。
今更、また輝けるという期待は再び挫折や裏切りを重ねていきます。
ねじれにねじれていく負の連鎖でしょう。