貧乏自慢としてのマイノリティ(あるいは雑記)
「強い弱者」という言葉があります。
弱さで上手く世の中を渡っていけるという事です。
弱さのワードといいますか、それも流行りというものがあり、少し前からは「性的」な少数者だったりします。
疾病利得という弱さこそ勝つ!みたいな老子の言葉がしみじみ本当だと思わなくありません。
逃げるが勝ち勝ちも含めて。
いまは価値基準ががた崩れしてますから、見てないところでの無法、権力志向(ボス猿)、新自由主義から超個人主義への移行が進んでいると感じ無くはない。
まずいのは、不都合を蒙った弱者などが「ならば子供のために自由を」などというと、躾は良くないなどといい、わけのわからないことになる。
自他を分けられない不幸というのが、更に墓穴を掘ることもあります。
非常に矛盾していますが、子供の貧困をWHOでしたか?その手の機関が目を付け出したと言うのに、まだお祭りをやろうと言うのです。
しかし、現実は資源確保のため、セコくならざるを得ない。要は資源獲得が競争になるのです。
多忙、疲労困憊、知的思考の貧弱さはたぶん、私だけではないと願いたい。
たとえば、仕事などは大したことはやっていない。
昔の…それこそ職人業のようなことは、それだけでコストがかかるから魅力的ではない。
要領の良さや、万人に通用するような…誰でもできるようなことが仕事になっている。
寿司職人など、都心に行かないと見られやしません。
アスペなどになるのは、疾病利得になるというのは、間違いではないが間違いでもある。
レッテルを貼られることで、宙ぶらりんな訳の分からん奴に腹を立てることが少なくなる。
「アイツはああだから仕方ない」という、その場限りの「とりあえず券」のようなものが発行される。
恐らく、知的な探求というのは余裕がないとできないことでしょう。
電車では大抵ゲームしてるのを見ますが、ラクな方におのれを走らせるというのは、個人がいけないのではなく、状況がキツイからラクな方に行かざるを得ないという見方もできます。
その昔、学校管理化の波が起きて今に至りますけど「管理」というのはイコール権力(ルール)でもあるわけです。
よく分からないルールが昔から、学校や会社ではある。
学業上(業務上)必要だ!と言っても、その不合理さは無くても良いものな場合が多い。
むしろ、個人の足かせになって自由を奪っている。
「ルールは最低限で自由に!」
と、いうのをどこかで聞きましたが、いまは逆でしょう。管理すれば、より良い事があるに違いない、という神話に洗脳されているのではないか?
いや、もっというなら管理(=ルール=権力)というのは「正す」という仕事でもあります。
正すが曲者なのは、必要だから正した!という個的領域の侵害という、非文明的なことさえ起きてしまうのです。
確かに大昔は個人の自由など無かったでしょう。
今まで積み上げたものがなくなり、また個というのが遠のき、全体性が重んじられるようになってきたのは、ヌポンの性質というのもそうですが、他方ではつるまないとやっていけなくなってきた!と見れるかもしれません。
要は退行現象でしょうか?
ファッショが良くないといいますが、実はもう少し利点・・・つるんだ側の利益を研究してもいいと思います。
いや、ファッショという事自体が過去的なものとしたら、克服するのは一体なんだろうか?
ファッショの最大の利点は個を埋没させ、危険を分散させ安全を計るというものがあります。
粗雑な言い方になりますが「強い弱者」になった時の横暴さは見苦しいものがあります。
言動に程度や塩梅を欠き、我が物顔で街を闊歩する様は「いつの間にか勝利を得た顔」になっています。
一体、強い・弱いとはなんなのでしょう?
ブラックアーティストの某氏などは、弱者のアレを蹴り飛ばせ!とまで言います。
レッテルというのは時に強い盾になるのです。
要は使う者次第なのですが、必ずしも善人であるとは限りません。
私のように悪いヤツもいるからです。
ところで、学校や会社というのは強さがないと行けません。弱っていればそれは辛い場になるでしょう。
松下さんの頃と違い「抱擁」な精神は解体されてますから、なんで弱ったのまて見ないといけないのか?というのは当たり前になり、常識になります。
いや、ならないとおかしい。
証拠は(大人の)ハラスメント含む虐待的な関係が子供世界まで知られていることや虐待は良くないといいつつ、自死の数が減らないことです。
ある意味、暗に虐待(≒スケープゴート)を認めているものです。
要領の良い子はそれをいち早く知り、世の中に出て、要領良く生きていきます。
とても、観察力に優れていますし勘がいい。
今野さんの小説など読めば分かるのですが、いたぶる程度や加減が分からないのが一定数いる、というのです。悦んでいたぶっていると。
しかし、逆もあるんじゃないか?という気はします。
今野さんは躾の欠落が今の壮年の良くなさであると、暗にニュアンスを込めます。
だが、可能性は老若男女、誰しも状況によっては残酷になれる。
あと、残酷さや悪さというが実はありふれたものなのだ、ということです。
ホロコーストをやった看守は「仕事」としてやりましたが、理由があれば幾らでも残酷になれるのです。
2つか3つ層を降りれば(普遍的な)暴力か何かが出てくるのです。
まぁ、そこは個人差があるようです。
暴力的な層にダイレクトに降りられたり、躊躇ったりすることもあります。
養老さんなどは、幼少の子で素行に問題あればスグ対策を立てた方がよろしい、とまで言っています。
見立てや見極めが幾つになっても必要なのは言うまでもありませんが。