もう一度帰りたい(海産物と雑文編)
私は二枚貝などはアサリを始めアオヤギ、シオフキ、ホンビノス貝、モガイ(サルボウガイ)などを知り、調理なり何なりしてきましたが、まさかシオフキに権利があるとは思いませんでした(かといって無闇に採っているわけではない)。
まれに築地に出るとありましたが、砂の残るシオフキをプロの技料理人はどう捌くのか?
まさか、出汁だけ取って終わりではないと思いますが。
江戸川放水路では遊漁者が潮干狩りを楽しむ季節です。アサリはともかくホンビノスがメインターゲットに今はなっているようです。
湾奥最後の無料潮干狩り場とでもいうべきか?どこかて無闇に護岸を降りてナニをするのも躊躇われる時代ですから、有機溶媒香る南風吹く中にて楽しめるなら越したことない。
ネットは商用、あるいはメジャーな情報に傾いた嫌いがありますから、個人・・・経験や印象を語る自然系サイトが上がりにくくなっています。
「探す」のが目的でしょうが、より効果的に楽しむなら○○という感じで、意外性やインパクトが減じている感じがある。
ところで、養老川河口はマテ貝が有名ですが今年のようです。
そう言い切りたくないですが、何せ車ではありませんから、そこがダメなら次!とはできません。
予想が外れたら潰しが効かないのが車族にないところです。
しかも、大潮の時間帯なら尚更です。
しかし、わたしも不器用かつ要領が悪いですから「ダメなら次!」という発想が湧きにくいのが痛い。
(´・ω・`)「アスペ?」
高校のIQは良くなかったですし、80前後のボーダーかもしれません。
支援がときに問題になるのは、不祥事もそうですが、ハンディが重症な方に傾き、中間事例が疎かになることです。
「それくらいなら、なんとかしろ!」
と、いう風になりやすい。
「脳」というのは、胃腸や肝腎のような臓器であり、胃腸が弱いとか、酔いやすいなどの個人差があるように脳機能にも何らかの個人差ががあってもおかしくない。
精神論に還元されたり、職場(あるいは学校・家庭)システムに順化させられたするのは、ほどほどのバランス感覚が働くわけで、これを適応力と言ってもいいでしょう。
「いい加減にしておく力」というか、頓着しないというか、拘らないというか。
ある意味、頓着せずに次々発想が出るのが、有能さかもしれない。
機転を効かせるというか。
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行き過ぎた自虐史観というのは問題ですが、AIが効率や合理性を優先した場合、負の歴史は無いものにするというのがあるようです
所詮は計算入力させて、最適な解を出させるわけですから、躊躇うはずがありません。
不自由展が問題になっていますが、都合が悪いからそうするのでしょう。
かつて、耳障りの悪い言葉は綺麗に飾られてきました。
援助○○、移民○○、サービス残業・・・。
しかし、露骨に分かってしまうのは隠しきれないから都合が悪くなる。
なら、先に中止にさせてしまおうという感じでしょう。
戦争遺品で兵隊さんサバイバルをする若い人が問題になっていますが、もう感覚の違いがある。
感覚が分からなければ実感が湧かないのですから、やってしまう。
文化と野生の違いというか、野生は放っておけば、植物が遷移していくように元に戻る。
文化というのは、残すためにはやはり定期的な手入れが必要なのではあるまいか?
「あるがままに」でいけば(負の?)文化遺産的な戦争体験など薄れて当たり前でしょう。