教育どころではない
教員のハラスメント問題のドキュメントを見ました。
印象に残っているのは、あの神戸の激辛カレーの事件ですが、たぶん…というか軽重を問わず似たようなことが、どこでもあるかもしれない。
むかし、河合氏が言いましたが、いまは(子供同士が)殺すくらいやる、程度を知らないと言いますが、そう言われた世代も親になり、主人公の時代を生きています。
程度・・・と言いますが、どの程度やれば反撃してくるか?とかこれ以上やれば良心が咎めるという、昔ながらの価値観です。
いまは、それも変質や風化をしていますから、自分がやられなければいいくらいになっているのでしょう。
また、私のいうことは過度の一般化というのもありますが、多くの情報に振り回されて元を見失うという危険もありますから、判断や見方もどこか奥ゆかしさを残しておかなければなりません。
また、河合氏は・・・もう、25年も前になりますけど、当時の親世代は勝ち組は勝ちの味を占めている、その要領を分かっているなど、赤坂さんや芹沢さんなどと対談していました。
これは、いまでは常識なところがあるでしょう。
バラエティ番組などでたまに見る涙モノの企画などは子供でさえ、タテマエと分かっている部分がある。
家の外に出れば、どうやられないか?の現実問題を優先させますから、涙モノなどはファンタジーです。
ハラスメントということ自体、みっともないと思いますが、現実にあるのだから仕方がない。
しかし、大人がそれをしているのですから、子供が見ていないわけがないでしょう。
大人世界からの甘えがあります。
あるいは、疲れた大人や勝ちの味を知った大人の開き直りかもしれない。
神戸の件にしても、アレを外でやれば犯罪になる。
しかし、辞めたのはやられた方でして、やった方はコトが大事にならなかったから、ホットしているでしょうし、また、どこまでおちょくれるかを学習したでしょう。
内田さんなどは、戦中戦後の人は戦争じたいに人がどう狂っていくかを万人に見せ付けた所がある、と言いましたが、死ぬのは・・・あるいは、殺されるのは自分かもしれないし兄弟や隣の家族かもしれない、という可能性があったから、暴力に対して躊躇の感覚が働いたのかもしれない。
少し前の「暴力はいけない」の掛け声で、大事なものまで塗り潰された感じは拭えません。
暴力性とは、殴る蹴るでなくとも、口の悪さやちょっかいからエスカレートすることがある。
悪の許容は親密圏からともいいますが、甘え・・・ある種の稚拙さから始まることもありえます。
イジメは良くないといいますが、断固として拒否することのできないシステムの不調があるからです。
過度の○○など・・・大抵は正しさなどでしょうけど、それを逆手にハラスメントしてくるという手法が少し前から流行り出しました。
正面から嫌がらせできないからです。
しかし、大人世界ではこの神経戦で疲れ果てている部分もあります。
村上春樹などの小説などには目立てば叩かれるのを分かっているからこそ、ジッとしている描写がありましたが、いまは2-3歩進んでいます。
(人道上問題のある)罵声も問題ですが、殴る蹴るや棒で引っぱたくなどもあるのでしょうけど、公安に駆け込んでも、その後仕事で気まずくなるのが、現状ですから不思議なものです。
不思議といえば、もしハラスメントで辞めたとしても、再就職の際にこの人に問題があって辞めてきたのだ、という理解がかなりあるように感じられます。
虐待的な場に甘んじて転職の腰を重くしている要因の一つでしょう。
果たしてこれを堅気がやることか?と思いますが、逆に素人だから危ない部分があります。
命を知っているからこそ、手出しや軽いことはできない。
「この世は娑婆で極楽じゃありませんよ」By美輪○宏
~追加~
なお、昔は良かったとか、昔の人の方が良いなどと言われますが私はそう思わない。人は・・・生き物は順応するのです。
正直、老若男女が今の時代に何とか適応しようとしている、昔の価値観では無意識にやっていけない部分がある。
ゆえに、良くなろうが悪くなろうが全人的に営業時間されている。人道や倫理に関しては例えて言うなら、刃物を目の前に突きつけられている所がある。
まぁ、そんなこと言っているヒマはないでしょうけど。