Nightapollon’s diary

元のブログが行方不明になり作り直します。時にディープな事を言いますがスルー(見逃)してください。

治安・世の中・生き方(風潮)

もちろん、負けていく、降りていく生き方もある。

しかし、それでは身体のなかの何かが許さないことがある。

神田橋老師などは、この人の遺伝子なりが発現したがっているのが自己実現だという。

要は精神だけの問題ではなく、身体をも含めた問題なのだろう。

 

10年前などは、何を選べばいいか分からない時代だったが、ここの所急に落ち込んできて、選べるものも限られるようになった。

百貨店のモノなどは私にとっては買えないし、バブルまえの時代がいまでは夢のようだ。

 

坂口さんなどは躁鬱を上手く説明する。

たぶん、人にはどこか躁鬱の成分を微量なり多量なり持っていて、バロメーターがあるのかもしれない。

神田橋老師などは暖かい地方には躁鬱が発生しやすいという。

私なども坂口さんの本を読むと当てはまる部分が無くはないが、それでも微量なくらいだと思う。

マニー(自分はできる!という自信)の部分が無かったし、行動というよりは、観察者向けの体質だと感じてきた。

 

それにしても、工夫がある文化は素晴らしいと思う。

「上手くいかないのが当たり前」とする北欧の地方では、人間気が緩めて生きていけるんじゃないか?と思う。

あれをするな!これはダメ!などの粗探しでは人間は被支配的になるし、そういうのを作る文化だろう。

工夫とはまた、自分を生きることに繋がる気がする。

創造力も養われ、人や物ごとにさえそれが働けばプラスになるに違いない。

 

やはり、衝撃的な見方だったのは木村敏氏の「常識は生きる本能」というところだ。

常識は生きるために作られるが、ベースだけど拘束力が強くなる性質がある。

いまなら、自分をルールに置き換えても通じるだろう。

ルール(≒常識)を上手く使い、他を上手くコントロールする。これも能力だ。

そして、自身もルールに縛られる。

 

何をしでかすか分からないというのを非常識という。

しかし、ルールやしかしが最小限でいいと言われるのは自分で考えなければならないのであって、未開な場合は何かしでかした場合は、放り出すということだ。

従って、ルールが最小限でいい場合は、自分で生きられるという土壌がなければならない。

果たしてこの国にはルールは最小限でいいと言えるだろうか?

良いことを上手く宣伝しておき、悪いことは見ないようにしていないか?

五輪はどうなった?