治安・世の中・生き方
雨宮さんの記事を読んだ。
そういえば、その通りのことが書いてある。
ツイッタの誹謗中傷など、他人のアカウントで嫌になるほど見て来た。
ツイッタが始まったときはみなオドオドしながら、やっていた感じがあった。
慣れというのは恐ろしいもので、SNSコミュニケーション強者というか、力学関係で会話や文脈が進んでしまっているのだ。
要は明るい・・・面白いことをいうのに人は集まる。
誹謗中傷や脅迫、人をコケにするようなコメントはヤフ○メどころではない。
自分のしていることが、とことん貶められるようなことがあれば、私は立ち直れないかもしれない。
レスラーですらそうだった。
某売れっ子脳科学者ではないけれど、人はイジメを止められない、その通りじゃなかろうか?
私の住む町もあまり治安がよくない。
というか、最近特に良くなく感じる。
COVIDや不況、先が不安極まりないなかで人間荒れるのは分からなくない。
山本周五郎作品の明言ではないが、男(人?)は中年過ぎて希望がなければやさぐれる云々…と書いてあった。
若い子はもとより、中年ですら投げやりというか、「世の中そんなもんだよ」みたいな堕落していく何かを感じずにはいられない言葉がある。
まぁ、人のことを言えない。
私だって紳士淑女がこの世のどこかに目指されているはず、と夢見ていたことがある。
だけど、いまは進めば進むほど、それは限られた存在にしか許されないものだと、今更ながらにわかる。
世の趨勢に流されながらやっていくと自分を見失う。
医療でも何でも、こういう世のだから…と言いながら物ごとを進めていくと、芯が無くなる。
ひたすら失った自分を探そうともがくと事態は良くならない。
第一、世の中のどこかに自分など落ちているわけがないのだ。
話が逸れた。
駅前などでは、傷害事件が時々起こり(というか氷山の一角?)パトカーの姿を頻繁に見るようになった。
河合氏は中年クライシスを書いたが、いまは誰もが荒れる可能性があるのではないか?と思う。
70-80年代に若い子が荒れた。
しかし、あれは装置として・・・SEALDsのように声を出せる場所があったから良かったのかもしれない。
不安やストレスがあれば過去のスティグマに関係なく、荒れるのは荒れるのだろいと思う。
もちろん、悲惨な過去を繰り返すというのは習慣としてあるかもしれない。
しかし、どう見てもやりたいからやる、やらない理由がないという荒れ…というか、暴力性があるように思う。
侠気というのはこの瞬間だ。
時に武術をさせたら侠客の方が上手いというのを良く聞く。
容易に荒れというか、暴力性を出さないというのは、覚悟でもある。
逆に言えば若い子の荒れは、大人が命を張って生きていないことを訴えているのではないか?と妄想する。
しかし、この手の問題は昔から聞いてきた。
安穏としようとする大人が常なのかもしれない。
いくつか違っていると感じるのは荒れや暴力性が一点集中のところだ。
30-40年前は余裕があった。
しかし、余裕がなくなると体制に暴力性が付くようになる。
政治の問題かもしれないが、上手く攻撃性や暴力性を取り入れたとも言える。
多用性を認め安心出来るどころか、どうすれば高下されないか、必死になる傾向は昔から変わらないし、いまはそれを肌に直に感じることが出来る。
1つの解法は党派に絡め取られないというのがある。
集団になれば人間暴走しやすくなるというのは、森さんが丹念に研究して分かったことだ。
何かある集団に効率や合理性、リソースが集まり出すと、それ以外は居られなくなる。
集団化はどこか甘い蜜のように見えなく無い。
中高年で報われない生き方をすると、見ていてもやるせない感じがある。
もちろん、後続の若い子に道を譲るのが道理だろうけど、夢というのがいつまでも打ち破られ、裏切られてきたというのは、この世の何事につけても足場がなく、信用を失う。
人間はいつでもやさぐれる可能性があるのだ。
ある心理学者などは理想なり目標なりを小さくしたり、2-3に絞りなさいという。
賢いと思う。
果たしてその理想が受け入れるとは限らず、どこかで泥をかけられることもある。
自分だけの理想郷はどこかに囲って置いた方がいい。