Nightapollon’s diary

元のブログが行方不明になり作り直します。時にディープな事を言いますがスルー(見逃)してください。

努力論(あるいは報われる事とは?)

心理学者の某氏は「人間は誰もがどんな時にも必死に生きているのだ」と名言している。

 

上を見れば仕方ないし下を見ても絶望的になる。

何故か上手くいかないなどは、生きていれば幾らでもあるし、果たして…負けることが生きていくこと何じゃないか?と思うことがある。

飛行機が常に上昇気流を目指すように、生きるのはそういう物じゃないか?と思うことが若い頃あった。

 

努力や格差を認める背景には、状況の良さやそれを引き入れる「呼び水」のようなものがある、と体感的に分かっているからではないか?

絶望や不利な中にある時は余裕が無くなるし、まずは保身に走るのが常だ。

 

あとで読まないといけない「戦後と格差」についての本がある。

最近は読むモノが多くて・・・というか、アタマが固くなってなかなか読書が進まない。

読書は唯一の私にとっての「教養取り入れ装置」だ。

私には知らないことが多すぎるが、逆にデマニュースさえある昨今、知らなくてもいいことまで脳に入り込む。

根本のところを抑えなくてはならない。

 

むかしの良書でたとえば、中国古典や仏典、聖書などがときに躓くのは、やはり文化背景がベースのところで弾いているからではないか?と、そんな気がする。

 

言っていることは尊いが、それをしていれば底の底までバカにされるというのが、実感している。

謙遜などは、いまは通用しない。

もちろん、TPOに合わせてしないといけないが、結局のところ、理解のないところには全く通用しないのだ。

 

では、尊いことをいうのが高みからの見物か?といえばそうではない。

昔から手の付けられない物事はあったのだ。

イエズスなどは30代で磔にされた。

この世に用意が出来ていないとそういうことになる。

 

イエズスに似た存在ですら受け入れられる余裕がなければ、この世の価値観では無用どころか有害になる。

ゆえに、家族にヒビを入れるためにやって来た、と書いてある。彼からしたら絆の有害さを分かっていたのではないか?

 

木村敏の常識とは何か?についてを読む。

分裂病じたい、哲学的な様相を帯びていると感じた。

また「常識とは生きるための意欲(≒本能)」というのは鋭いと思った。

人間、常識にしがみつく。

いや、それ以外は許されないものだ、と時に思う。

 

非常識もまた生き方だとしたら、そのスペースはこの世に残されているだろうか?

そうせざるを得ない生き方をしてしまった患者は、常識という世間の壁に圧倒されるのだろう。

 

常識の残酷さは、しがみつく人間に何事も許してしまうところがある。

常識で世の中は回っているから仕方ないという。

しかし、行きすぎた常識は強迫的だ。