「島の人達は人の話を聞かない」を読む
この前、紀伊國屋書店で森川さんの本を手に入れました。
パッと見ではとんでもないタイトルだ。
フィールドワークや池袋での困窮者へのヘルプ、執筆活動、診察室など、かなり精力的に動かれているのだと感じました。
この後に書かれるオープンダイアローグの触りを書かれていますが、この本も重要な1冊だと思います。
あとで読み返し、勉強できるため付箋をいくつも貼りました。
歳をとれば情報が入ってきても、留めておくのが難しいからです。
ネタバレまっしぐらなため、連想や印象を書くことにします。
(´-ω-)「・・・」
これも大事かもしれませんが森川さんは菜食主義だそうです。
初めて知りました。
医師の意見では菜食主義を通すのもそうだが、体調を維持するのも大変なことだ、というのがあります。
また、菜食主義などいかん!何でも食べないとならん!というのが、たまにいます。
雑食は逞しいかもしれませんが、世の中で菜食主義を通すのも逞しいと思います。
一人、肉しかない環境を耐えなければなりませんから🍖
また、菜食主義をひとつの性質(=個性)と見るなら、「菜食主義など許されない」というのは、自分の意見に従わせただけでしょう。
ファッショへの道に続いています。
一様性は強権主義と同じではないか?
本書では地方でも自殺の少ない地域を巡っていますが、コミットメントは緩く広く・・・という感じがこのルポを見る限りします。
また、都市ではコミットメントはキツく過密だというのも頷けます。
さらに、「私とはなんぞや?」というのが分からなければ、都市にいた方が良い云々のニュアンスもありました。
これは、都市の無個性さが暗に意味されているのかもしれません。選ばれたモノが登場するビルのモニターは、競争して勝者が映されるのですから、忖度として・・・競争は付き物だぞ!という暗示があります。
自然とはどうにもならないところがあります。
どうにもならないのだから、手段はいくつあってもいい・・・に繋がりそうです。
単一で洗練されたモノ、当たり前で確実なモノだけでは、人間文化のあるところでしか通用しないのです。
たしか、中井先生でしたか?
患者を狂わせるなら、周りも狂わなければならないというニュアンスを残されたのは?
周りは患者のおかしさを正論という槍で突いてきます。
おかしい、狂うというのは、ある意味周囲から発せられる呪いや暗示ではなかろうか?
集団的に観ると、ひとつ狂うのを見つけたり、狂わせたりすれば、そう言っていられるのは正しくなる。
妙な論理です。
正常異常については「なだいなだ氏」の狂いきちがい考がありますから、あれを読めば分かってきます。
要は程度の問題なのです。
どの程度、おかしいのか?
逆にどの程度、正しすぎるのか?
それを踏まえて言うならば、森川さんは「環境により人はおかしくなる」というニュアンス(※意訳)を書いていました。
環境が病を作る。
極端を言えば環境によりどうにでもなるということでしょう。
間違いなく、正しさや正論というのは使いようによっては、支配欲や権力欲を満たす最高のツールになりえます。
相手に対してイラつく、当たり散らすなどは「俺様の言う事を聞け!」という事になりますし、残念ながら世の中には、一定数のそういう人間が居るのです。
また、私も勉強不足ですが社会体質といいますか、官僚制(権威性)なものは上から下まで皆、真似るといいますが、構造的にそうなるのは構造上の問題だとも言えます。
だって、そういう文化やシステムがあるからこそ対話も無ければ疑問も自分の意見も封じられた方に生活が向いていくのですから。