結論ありきな話(野暮話)②
カフカなどはどこに行こうとしていたのでしょう?
また、チエホフなども観る限りは現実のどこにも行けなさから、悟性を感じさせる言葉を小説のあちこちに散りばめています。
現実というのは、死ぬまでどこにもいけませんし、出られません。
いや、死んでも分解されて、他の何かになったり、宇宙の微粒子として浮遊していくことでしょう。
現実主義の延長として考えても、どこまでもこの世が続くわけですし、あの世や三途の川などは精神世界・・・いわゆる、イメージでしかないのです。
インドの行者ではないですが、修行により物事を微分化していくことがされます。
これは、ミクロ世界を覗くようなもので、ひとつの塵に数千の仏が居るという思想に繋がります。
物事は足りないのではなく、実は既に足りていたという悟りを開くためでしょうか。
そういえば、観念や妄想・・・たとえば、水子の祟りなど妄想だとして、精神安定を図ることがあるそうですが、想念や観念はいくらでも燃え上がりますし、真実から遠ざかる一因にもなりえましょう。
ところで、分解の加速度を低めるにはやはり創造力でしょう。先に言った対話がなどは分解から遠い世界にあります。
対話がなど・・・いや、その作業自体は組み立てるというものがあるのですから、より分からなくなる、ひとつの世界が出来上がるというのにつながります。
ある意味、戦中のテクノクラートたちの行為も分解・・・鋭い正論を持って世界を制したいという野望も一様性を高めるやり方ですし、0か1または、0(≠1)しかない状態に持っていくのですから、究極には有無の「無」を目指したわけであります。
なぜ、有でないか?有だとまた、複雑さを目指さなくてはならないからです。
すると、分解から程遠くなる。
それを嫌うのですから、また分解の方向を目指す。
言葉も多い方がいいか?といえばそうでもなく、存在自体が語る、少しの言葉で伝わるということがありますから、下手な矢でも数ありゃ当たるが正しいわけではありません。
要は正鵠を射るのが必要です。また、それ自体が豊かさであるのを知覚する必要があるのです。