世の中アレコレ②
うちわ会食が優雅だと思うのでしょうか?
自分達がやりたいから、下々に配るというのは権力的です。
会食というのが昔からなされ、宮勤めなんかしていたら、宴がいくつも開かれていたものです。
良いものを出され召す、受け入れたり、政治的な話になったりと、どうしても見栄は出てしまいます。
しかし、COVIDがまだ収まりませんから、死にたくないがフグは食いたい!というパロディのようです。
いや、会食しないと死病にかかるのがいるからでしょうか?
我慢や忍耐と無縁な甘えな構造が垣間見えます。
トリチウムが海に流されました。
いずれ、大海原を巡るでしょう。
毎回、増える放射性物質を何とかするにはこれしかない!というのでしょうが早い話、頭のいい人を黙殺してきたから、こうなるのです。
私などは頭が良くないですから、原発事故が起きた時のチームリーダーを見たら、頭が痛くなりました。
あれは人間技じゃないぞ!と何回も思いました。
戦後は汚染物質を海洋投棄した習慣が水俣になりました。どうも、楽観視があったようです。
汚い水を沖に流せば薄まって分からない、という生活習慣がありましたが、今やれば問題になります。
考えてみれば、東京湾なども醤油色の海岸を私は見てきましたが、だいぶ今は綺麗になりました。
しかし、記憶としては忘れかけています。
海洋投棄は問題ないという優れた知識人もいますが、先を読まないといけません。
そりゃ、自然界にトリチウムやセシウムの類(たぐい)は微量でもあるでしょう。
果たして、どう薄まって、どう半減期を迎えていくのか?それこそ人智を超えた問題ではあるまいか?
うちわがOKなら飲食店も良いはずです。
楽観的(楽観視)といいました。ものごとは大したことはなく心配がないということです。
しかし、見えない影の部分・・・医療危機やCOVIDで亡くなった人もいるのですから、もし亡くなった人が自分であれば、震えの一つや二つはきます。
いや、今日は何人罹って、何人死んだという交通事故件数のような、無機質な数字にされてしまうのですから、世の中の水面下では悲惨なことがあり、見えなくされているのです。
もちろん、身体は一つですから何もかも知ることは不可能でしょう。
楽観的に語る日とには、実は気弱だったり、不安だったりするようですが、何かに自分を預ける(≒依存)のが得意なことがあります。
それができないから、病的になるのかも知れませんが、やはり文化的な病いと言えそうです。
気休めなことをいいますが、宴というのはカタルシスの場でもあったのでしょう。
気心の触れる仲間と飲むというのは、分からなくありませんが(若い人からは嫌われます)、同質性を確認したり、同調効果をもたらし心身の健康に良いのかもしれません。
しかし、それがCOVIDで禁欲できないというのは、中毒性が「宴を開く事」にはあるようです。