世の中のことアレコレ②
相模原の話しがでたのでついでに…
被告は発達障害という意見があります。
だれも彼も発達障害というのはレッテル貼りのような気もしなくはないけど、事情がハッキリすれば落ち着くという心理効果があるようです。
また、単なるおっちょこちょいも発達障害にしてしまうのは、やり過ぎな気もしなくない。
レッテル貼りや明確化は文化か?と思えてしまいます。
先も書きましたが、事情など必要ではないというのが、世の中の傾向ですので、よく分からん!というのが嫌がられたり煙たがられるというのも分からなくない。
たまたま、その文化なり主流の話に合わせている、それが苦痛ではないから、いいのであって、文化の容量が大きくなるに従い、個人の顔は見えなくなっていく…要は世に通じる話しが好まれるようになる。
難しいヤツというのは居ます。
しかし、誰もが難しいヤツになりたくない。すると、それをすればするほどおかしくなりますから結果、融通の効かない状態になる。
融通が効きませんから、正解や正しさ、強迫性を求ようになります。
とすれば、患者の強迫性は何処かで貰ってきたものではないか?というようになる。
患者が問題ではなく、彼のいた場所がすでに強迫性が渦巻いていたのではないか?となります。
世の中のあり方も一応、定型ですから、はみ出るというのは少なくなります。
しかし、それに適合するなら良いが、適合…あるいは適合過剰ななかでも、何ともないというなら、過剰適応となります。
過剰適応が好まれるというのは、上を見れば政治的なものがチラホラ見えますが、従属というのが生存戦略に適していると選び、何とも思わない身体になると言うのは、果たして正常な在り方か?
戦前の体質が克服できていないという意見がありますが、それ以外の道を選べなかったのではないか?
外向的な政治から個人の方に目を向ければ、上がそうだから、中も下もその体質は受け継がれるというのはあります。
上司、先輩の意見は絶対だとしたら、あるいはパワーのある者の意見が渦を巻いているのなら、タテマエの民主制や個性大事があっても、裏や本質は権威的な体質はに落ちていきます。
強迫性は工業的で一律な感じがしますが、一方では軍隊的な感じもあります。
未だに部活の扱きがあるというのは、興行製品を作るためには自らが工業製品を生む母体でなくてはならない、という「個人」への調教のようでもあります。
まさに、富国強兵です。
そんなこんなで、発達障害が出てくるというのは、当たり前な気もします。
発達障害があるから仕方ない、というのは諦めや気休めでしょうが、事(行こシステム)の本質が工業的ですから、大事にされるのはいつまでも一律な物事なのです。
まぁ、1歩引いてもグレーゾーンという見方…スペクトラムというのが誰にでもあるというのもありますが、だったら何をしてもいい、というのは程度を超えています。
アイツはアレだから!と言って粗暴にさせたまま問題児…あるいは犯罪者にさせるようなものです。
ちなみに、問題児や犯罪者が人間の依存先になるのは、誰しももつ後ろめたさを中和してくれたり、後ろめたさの盾になってくれるからでしょう。
ゆえに、アイツはとんでもない!とすぐ言える。
実はそう言う者の方が影でもっととんでもなかったりします。
むかし(今も)、京都にあった人形(ひとがた)を川に流すと言うのがありましたが、問題児や犯罪者叩きと言うのは、それに似ています。
リアル人形流しでしょう。
スケープゴートの研究がもっとされるべきです。
もし、スケープゴートが原型としてあるのなら、現代ではどこに陰を落としているか?それによりどういうマイナスがあるのか?などは研究されても良いはずです。