呪詛的緊縛(あるいは現代版陰陽師)
少し前に子供を餓死させた事件がありました。
支配関係にあり、反抗出来なかったと言いますが、犯人が弱かっただけとは言えないでしょう。
つくづく思うのですが、子供の反抗期などは必要だと思います。反抗により、あってはならないシーンを回避するというのは大事なことです。
1番、いい例が昔ありました¥3000万恐喝事件でしょう。
あれなどもズルズルやったケースでしょうが、加害者などは上手くトンズラできると睨んでいたのでしょう。
だけど、明るみになり逃げられなくなった。
ませたヤツは大人顔負けの悪さをする。
繁華街で大金使ったり、ドラッグをやり繰りして「こういうのはここまでできるんだ!」みたいに慣れていきますから、それに関わることは、まさに暴力的な呪詛といっていいでしょう。
なお、河合さんなどはむかし「¥3000万どころか数億など大人世界では、もっと途方もないことをするヤツがいる」と言っていました。
ズルズルした不健全な関係・・・生きていれば、多かれ少なかれそういうのは無くはないでしょう。程度の問題になります。
グレーな事柄はどうしても悪い方に傾く。いい悪いではなく、利害関係が絡むと相手を悪くして自己利益を増す方に持っていきたがります。
しかし、心理学では支配関係にあったとクールに言ってくれますが、支配どころか主従関係というのは、どこか安定性があって危ういものでしょう。
支配にせよ主従にせよ、ひとつのシステムと見たら、ある意味、生産現場や集合体として安定性を持ち出すはずです。
これを依存と言ってもいいかもしれませんが。
この国では武勇伝がもてはやされると聞きました。
ヤンチャをすることでハクが付き、勇気と見なされる風習があるようです。
五月人形などには屏風に武者が描かれますが、考えてみたら強い子になって欲しいというのは、大人の言う手柄の事です。
承認されたヤンチャというのは認められますが、そうではない時は「恥」となります。
土居先生の本に詳しく載っています。
まぁ、そのようなことですから、上記の支配関係により子供を餓死させたというのは弱い加害者になってしまう恐れが無くはない。
支配していた者が禁忌にされるのは、昔の荒神のように不可解なものとして敬遠されながら扱われるようで、不遜ながら興味深い。
強きをくじき、弱きを助けるでは全くないこの国独自のやり方が目立ちます。
もちろん、暗示というか呪詛がかかっていますから、それは解かないとなりません。
そのうえで良好な依存先を見つけていけば、加害者も新たな行き方を見つけられるでしょう。
暗示なり催眠なりは「良いこともあったでしょう?」とか「貴方にも問題がある」などと言われても病的な部分の多い生き方をしていては、多分いつまでも救われない気がします。
悪いのは術者なのですが、法という結果はどうであれ形(裁判)にしないと様になりませんし、世間というのは白か黒かという判断を望みがちですので、2重3重の戦いをしなければならないでしょう。