個人的な祈り(スピリチュアリズム)
スピリチュアリズムというのは霊的とか直感的とか、感じやすいなどのイメージがあり、ややもすれば綺麗に聞こえますが、注意しなければいけません。
あの河合氏ですら戦後、これからは科学でいかなくてはいけないと言っていましたが、反動があったのか心的なものへの振り戻しがあったような印象があります。
詳しくは彼の心理学を見れば分かりますが、心的なものや霊的なものは慎重に注意深くみていかないと、マズいと私は思います。
一体感や絆を求めるのは安心感を求めるところがあるようです。
村上さんは言いましたが「君の言うことは分かる、じゃあ手をつなごう、では無いものを求めたい」という手をつなごうのレベルの深さではないでしょうか?
古来、この国では直感、感覚的な里海がありました。
これみて悟れ!のようなものですが、コレとはモノだったり、人だったりします。
悪くいえば、黙って言うことを聞け!とか、見れば分かるだろう!みたいな理解のさせ方に繋がります。
最近では忖度もこれに含まれるでしょう。
理由を聞くのは野暮、この道理を見れば分かるだろう!というのは、あの巨大掲示板のやり口に非常に似ていますし、効率に価値がある世の中ですから、効率がいいこと以外は無いもののように扱われることもなくありません。
さて、スピリチュアリズムですが、上手い霊能者はクライアントの来歴を見ればある程度推測できるそうです。
もっといえば、経験則に頼っていれば、何も透視だの霊媒だのをしなくても済むのです。
あの、スコットランドのウィッチですら、クライアントにいくつかの道を選ばせるのですから、未来をどう判断するかはクライアントであり、こうすればこうなるよ!というのがウィッチなり霊能者でもあります。
しかし、これはまだ良心的な方でしょう。
ツボを買わせるとか、数珠を付けなさいも問題ですが、ある種の判断は後付けで理由など、どうにもなるのです。
後期のブラバッキーなどは、わざと小細工をして後ろからものを取り出したというのですから「結果を用意しておく」というのは仕掛けのあるマジックです。
先に一体感や絆を貶しましたが、安定感や安心感を得られるなら適度にあってよろしい。
しかし、これがファッショに繋がったり、国家に使われるようであれば問題です。
75年前を見れば分かる通りです。
子供が不慮の事故で亡くなれば、親はみんなの中で生きると言う愛しそうな言葉を述べる事がありますが、これも一体感への全体回帰な考えでしょう。
私の考え方が冷酷なのかもしれません。
しかし、1人を集団へ融合していくやり方は、どうも根っこに全体主義が心性として潜んでいる気がします。
よしもと女史などは、小説を書けば底では皆繋がっていると言います。
たぶん、そうなのでしょう。
いや、タンパクやカルシウムとしての身体と見るなら、そりゃ繋がっているのは当たり前です。
身体を基礎として、底とすれば、それ以上も以下もいけません。
しかし、スピリチュアリズムじたい独立しているようにも見えます。
何かを知覚するのは霊媒ですが、だからといって彼が全体性にあるかといえばそうはいえない。
言うならば、透視や予言は個人がするものであり、これみて悟れ!や一体感、忖度は共同幻想に近い。
道理を知れば結果は分かるだろう!は皆のルールですから、そこから外れることは許さない。
まぁ、全体主義からの霊媒からしたら、道理が(=予知)になるのでしょうが。
そう考えていくと一体感、忖度や空気を読め!などは実に狭い。
集団のなかで、起きて欲しいことが道理であり、起きることが分かっているのですから、誰でも小さな霊媒になったようなものです。