戦後世代から離れて
事件や事故は何を物語るのでしょう?
個人的なそれらは個人として処理されますが、たとえば震災や地震などは、ひとつの現象が起こった!として共有されます。
ただ、印象は究極的には個人のものになるのでしょう。感受性は個人個人で違いますから、ダメージの方が痛み(=PTSD)として、内的に沈殿していくのだと思います。
変な話、良識的な考え方(?)では事件や事故が広く起きた場合、共有範囲が広いため被害にあったのは彼であり私であり、あの人であり・・・で交換可能なイメージが湧きやすいのかもしれません。
遠い事件がすぐ観られる時代になりましたし、津波の動画などはいつまでも観ようと思えば観られます。
悲惨なことはもう過ぎたんだから!と窘められますが、温存されたトラウマのようなものは、次第に非言語化され本能的な感情に還元されることがあります。
フラッシュバックではあらりませんが、何となくイライラするとか不安になるなどは、過去の不幸が火種として記憶にある場合もあるでしょう。
それにしても戦後75年を過ぎます。
戦後というのはある意味実験結果のようなものでもあります。
みな、貧乏だったといいますし、すること、やること、知ることなどは、今のように分化されておらず、状況は皆が分かりやすかったのでしょう。
ある人は戦争による直接的な現象が人間にどう変化をもたらしたか?という皮膚感覚を与えたといいます。
どうすれば、人間が壊れるか?
どうすれは、人間が損なわれるか?
どうあれば、人間が死んでいくか?
など、いまは病院で亡くなりますから死も病苦も直接的だったに違いありません。
苦しみというのは直接的な感情です。
どうも今は、バーチャルな苦しみとなっていますから、リアルが逆に嘘くさくなってもおかしくありません。
バーチャルにより、常識や道理が共有されていますから、個人的な感覚や感情が一般化され、何かあれば「たかがそれくらいで」と言ってしまえる。
まえは、人間についての直接的な程度がありました。
それ以上やってはダメだ!みたいな抑止力です。
これは、単に共感や一体感というのではなく、極端に言えば刺されて痛いをというのを、交換可能なら存在として、自分と他人をイメージできていた、とも言えます。
時代は、そういう感覚が消滅しているような感じがあります。
「自分ならそうしない」
「そんなバカはやらない」
と、いう意見が多くなりました。
他人は自分と交換可能ではないという考えに立っています。
ソクインの情とでも言いますか?
「痛かろうに」という余裕や「間」がある感覚でしょう。
そう考えればSNSなどは距離が近いというより、脳という臓器の融合した状態かもしれません。
親しさや距離の近さは退行を起こすと言われますが、むしろ、距離が滅茶苦茶な状態な気もします。
他人行儀だったり、妙に親しさゆえの小馬鹿にした態度だったりで、心身の・・・特に身体の生滅を感じさせます。
「ゲームのリセット」が問題にはなりましたが、嫌ならネット回線を切るなどできてしまいますから、リアルよりバーチャルに比重があった場合は、関係した相手にダメージがないはずがありません。
自分と他人は交換可能、相手の身に立ってみる、などの考えも仏教にありますが、対人の距離や間が分からないものは時代には、身体性を欠いた脳の都合で判断されてしまうのかもしれません。