処世としての教育
ちょっと前に学校では生き延び方を学んだ方がいい、という意見があった。
ありだと思う。
私などはあのような閉鎖空間で、力関係が現れるのは当たり前だと思うし、序列を付けていま、何番などやられていては、一様性な見方になるのも仕方ない気もする。
教官が(半分?)悪いのでもなく、構造がよくない。
最下層から見える景色というのは灰色で余裕が無い。
器用さや賢さがものをいい、たとえ、その能力があったとしても、使いようには悪くする人間の惨たらしさがよく見えた。
校内暴力が盛んなとき、自動的に「暴れるやつはホントダメだなぁ~」というダメなヤツ作りなシステムを作ってしまったんじゃないか?と、いまではそう思う。
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私は人生論は好まない。
いや、こういうパターンは幾つもあるよ!みたいなのが多数ある方が好きだ。
飲み屋で出来上がった親父さんらが、今日行く談義を醸す時、駄べることに意味があるのだが、時々意見の違いから「~べき論」が登場するから、ケンカになる。
Sという医師は道徳より「考えさせる授業」をやった方がいいという。
だけど、厄介なのは考えることを「人をイジる」ことに使うばかりをイメージする子も居てしまうことがある。
まんべんなく、ものごとを伝える授業にとって、効果の偏りは仕方ないのだろうけど。
問題はもちろん、問題ある者なのだが、彼らに足りてないのは・・・というか、工夫でもあり、パターンであり、意外性でもある。
しかし、さきも言ったように最下層というのは、あらゆる方向に余裕がない。
だから、そこは手を差し伸べるとか、自助なりのアクションは要るのだろう。
大人は教え諭すのが好きだ。
だけど、躾(しつけ)が行き過ぎれば支配になる。
よしもと女史が昔「決めつけはよくないけど、こうした方がいいよ!はあってもいい」といっていた。
そうだと思う。
辛い場に居続けたり、戦ったり、耐えたり、涙を流したり、と言うだけではない。
むしろ、逃げたり、スルーしたり、訴えたりとアクションがあってもいいのだ。
そういう処世を大人は示さないと・・・あることを提示したり、すれば広がりが出る。
だって、学校世界の延長が大人世界であり、学校での常識が通用しないことなんていくらでもあるからだ。
「こうした方がいいよ!」をいくらでも見つけるのが、汽水からでる海原・・・大人世界へ向かう技術ではないか?
また、合わないこと、合わない人などいくらでもいる。
人間には歴史がある。
その人がどうしてそうするなんてのは習慣の積み重ねだからであり、微細な出来事でもある。
無論、仕事なんかしていれば、そんな歴史に付き合ってられない。
事情を知らないから「アイツはあんなやつだ」と決めつけになる。
子供世界の惨たらしい事の数倍は大人世界にはあるが、大人はそれを教えない。